冊子「福田村事件の真相」 その2 ー福田真村事件とはー
編集発行 千葉福田村事件真相調査会
連 絡 先 香川人権研究所
発 行 日 2001年3月1日初刷発行
福田村事件とは
香川人権研究所 事務局長 喜岡 淳
■福田村事件の概要
1923(大正12)年9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川で、三豊郡の薬売り15名が自警団に襲われ、幼児や妊婦ら9人が殺されました。これが福田村事件と呼ばれるものです。彼らは全員、三豊郡の被差別部落の人たちでした。
9月1日に関東大震災が起こり、火災や混乱が東京や横浜を中心に広がりました。人々は恐怖と混乱でパニック状態になりました。その時人々の間にうわさが飛びました。「朝鮮人が井戸に毒薬を投げた」「朝鮮人が武器をもって町を襲っている」などのデマです。後にウソだと分かりましたが、政府と軍部は翌2日に戒厳令を出し、関東各県に命令して在郷軍人や青年団、消防団(当時は消防組/保存会)などによる自警団を結成しました。彼等は猟銃や日本刀・竹やり等で武装し、要所要所で夜も寝ずに警戒に立ち、「怪しい朝鮮人」と疑問を抱く人を次々と尋問しました。興奮した自警団はあちこちで朝鮮人などに暴行を加え、6日頃までには横浜・東京・千葉・埼玉・群馬県などで、虐殺事件がたくさん発生しました。自警団暴力事件と呼ばれるものです。殺された朝鮮人の数は、司法省によると233名、吉野作造博士によると2613名、その後の調査による追加も含めると6618名にもなります。日本人と朝鮮人は一見して区別がつきません。このた め、200名をこえる中国人や数10名の日本人が朝鮮と見られて殺されました。
福田村事件も自警団暴力事件の一つです。この事件では、福田村と隣の田中村(現在の柏市)の自警団員8名が有罪判決を受けましたが、判決は軽く、懲役刑となった者も結局は恩赦で釈放されます。彼らには村から見舞い金が支払われましたが、犠牲者には謝罪も賠償もありません。9人もが殺害された悲惨な事件にも関わらず、事件の地元である野田市では何の記録もなく、地元では口を閉ざしたままになっています。
1999年頃から遺族や関係者の中で「遠い利根川で理由もなく殺された仲間を思うとかわいそうでならない」「七〇年間も真相を知らずにきて申し訳がない」との声が高まり、翌年3月に豊中町で「千葉福田村事件真相調査会」が結成されました。続いて同年7月に千葉県側で「福田村事件を心に刻む会」が結成されています。
■事件にひそむ問題点
事件をめぐる問題の一つに部落問題があります。なぜ一行は、三豊郡の被差別部落から遠く離れた関東地方まで仕事に行ったのでしょうか。乳飲み子を連れ、家族挙げて行商に出掛けた背後 には、大正時代の厳しい部落差別が潜んでいます。二つ目は行商への偏見についてです。行商を軽蔑する見方がありますが、果たしてそうでしょうか。例えば売薬行商人は医者や薬屋もない山深い寒村にまで薬を届け、そのうえ情報や文化を伝えた事実を見落としてはなりません。口上を述べ、歌や踊りを演ずる彼らは芸能の担い手でもありました。三つ目は朝鮮人差別の問題です。1910年の日韓併合で朝鮮が日本の植民地になって以来、朝鮮人に対する民族差別は急速に強まりました。これがデマの背景です。
このように、福田村事件の背景には、今なお真剣にとりくまなければいけない人権問題が複雑にからみ合っています。
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