冊子『福田村事件・Ⅱ』その3 現地学習案内―福田村事件を歩く
『別冊スティグマ第15号』(2003年3月20日発行)
編集:『別冊スティグマ』編集委員会
発行:社団法人千葉県人権啓発センター
『福田村事件・Ⅱ―80年を経て高まる関心』その3
現地学習案内
福田村事件を歩く―ドキュメント・売薬行商団の歩いた道―
市川正廣(社団法人千葉県人権啓発センター歴史調査部会)
■はじめに~フィールドワークの案内
マスコミ報道や、各種集会等での報告が進むにつれて、ほとんどと言って良いほど知られていなかった「福田村事件」が多くの人々に驚きを持って周知されてきた。まさに歴史の闇の中に埋没していた事件に光があたっての事である。そして今、事件が注目されて、現地学習=フィールドワークが多く取り組まれている。
事件の背景は様々であるが、何と言っても八十年前に起きた事件現場に立ってその臨場感を体感し、犠牲になられた人達を追悼すること。更に事件現地の周辺の状況の現代と過去を重ねていく作業をし、「福田村事件」を通じて自らの運動などの課題を照射する。
フィールドワークの成果を各地での反差別、人権確立の為に活用してもらうようにお願いをし、案内をさせていただいている。
本稿では、事件当時の被害者の足取りを追いながら、以下「福田村事件」を歩く。
■宿から野田町へ
「仏の三郎さん(仮名)」は木賃宿「いばらきや」の経営者でひとに優しく、宿泊する人や出入りの人、近在の人からも慕われていた。
一九二三年九月六日早朝六時頃、「まだ危ないから行かない方が良い」と心配する三郎さんが言うのを、「大丈夫」と言って支配人の亀助さん以下一五人の香川県出身の売薬行商団は宿を出立した。集団には二歳、四歳、六歳の子どもも、妊娠している女性もいた。足の不自由な人もいたようだ。三郎さんに調達してもらった大八車は、早朝のまだ人気の無い野田町の中心部に向かっていく。
木村知吉さん(旧・野田町住民)の証言
「震災のとき(註①)野田醤油工場から工場建設で働いていた六十人位の朝鮮人を、親父の替わりの仕事で現在の市川市の国府台まで、江戸川を「萬寿丸」という船で連れて行き騎兵連隊に渡した。話によると醤油工場で暴動を起こされては困るということだった。泳ぎの達者なものが連行役だった。その後朝鮮人がどうなったか知らない」
「福田村で『朝鮮人と間違って日本人を殺した』ということは当時親から聞いた。自分が知っているのだから、町の人は大部分の人が知っていたと思う。ひどい話だと思った」
行商団にいて、辛くも命が助かった(註②)大前春義さん(当時一三歳)の証言では一九二三(大正一二)年三月に郷里香川県を出て、京都、大阪、群馬を経て千葉に入った。野田では一ヶ月ほどいて震災にあったようだ。この間、売薬行商(正露丸、頭痛薬、風邪薬、湯の花等を高松から仕入れて売る。香川県発行の営業鑑札は持っていた)を野田町周辺で行っていたようだ。他の一四人がいつどのように野田町の「いばらきや」に来たのかはわからない。
また、なぜ野田町にきたのだろうか、推測してみると、当時の(註③)野田町は醤油産業で大変にぎわっていた町で『商売』になるとの判断でここ野田町に来た。周辺での商売が終わったら次の目的地の茨城県へ向かう予定(転地という)。
こうして次の目的地へ向かうための準備をしていた矢先に、大震災にあい商売も不調となっていく。収入もなく更に宿の経費などもかさむので早く転地しようとしていた。宿主の三郎さんが、「朝鮮人騒ぎで危ない、宿代も延ばしてやる」と止めたのを、支配人の亀助さんは「日本人に危害を加えるなら大声を出してやる」と言って出立したという。
宿の前の街道は、当時埼玉県から野田町に通じるにぎやかな通りであった。町中では主に醤油関連の原料や製品を運んだりする(註④)人車鉄道もあった。
これから向かう福田村三ツ堀の渡しまでは約二里半の(一〇キロメートル)道中である。町中の一部が砂利道であとはせまいでこぼこ道となる。残暑の厳しいこの時期に大八車を押して、子どもも含め、足の不自由な人もいる集団で目的地に行くためには、時間もかかるので早朝の涼しい時間に急いで宿を出て行ったと思われる。
「野田町の中心部を通り、(註⑤)野田町駅の脇を通って一行は野田醤油の工場の間を進む。あと一カ月後の故郷の秋祭りには帰郷しようとしていたので、茨城県で商売が終わったらここの駅に戻って帰るのだと励ましあって進んで行ったのだろう。「この付近には現在キッコーマン野田工場があり、T場内にある「もの知りしょうゆ館」では近代化された醤油の製造工程などを見学することが出来る。福田村事件のフィールドワークの時に、野田を訪ねた折角の機会ということもあって訪れる人も多い。
この道筋は、現在の県道松戸・野田線から野田・牛久線に入っていく。
当時の野田町は醤油産業労働者側と醤油会社経営者側との大きな労働争議などもあり、町周辺は一部落ち着かない状況でもあった。
「當時本町野田醤油株式會社第十七工場建築中にして、工事に従事せる鮮人土工三十九名あり。此等鮮人は九月八日警察官泣消防組等七十名之を護送し、江戸川を下りて市川町に至り官憲に託したり」とある。『大正大震災の回顧と其の復興下巻第三章第一節郡市の震災状況昭和八年八月一日発行千葉縣罹災救護會』
註②大前春義さん
一三歳で事件に遭遇し、事件現場の生々しい被害体験の証言を残している。『福田村事件の真相』二〇〇一年三月一日発行千葉福田村事件真相調査会
註③野田町
現・野田市。一九五〇年五月三日市政施行人口・一万四七九七人(一九二三《大正一二》年)
註④野田人車鉄道
明治、大正の頃人が貨客車を押す人車鉄道が各地にあった。鉄道というよりも軌道と言った方がふさわしいが、野田の場合は人車鉄道と言った。一九〇〇(明治三三)年に開業し一九二五(大正一四)年頃に廃業した。
註⑤野田町駅
当時の北総鉄道野田町駅は、現在の東武鉄道野田市駅の位置とは離れて、やや町中にあった。
■野田町から旭村へ
醤油工場を過ぎてしばらく行くと、町から農村へ入って行く。現在の東武鉄道野田市駅を過ぎて行ったあたり。現地フィールドワークに行く場合には当駅からバス、タクシーなどを使うと良い。当時は開けた畑が続いていたようだ。行商団一行は野田町から旭村に入った。現在の国道一六号線を過ぎるあたりからは雑木林や松林が続く。木陰で休みながら進む。この林間を利用して造成された現在名門と言われる高級ゴルフ場が道の両側にある。東京に近いことと、高速道路のインターに近いこともあって利用者が多いと聞く。
林の終わるころ道は左に曲がりながら下りの坂道となっていく。一行の前方には湿地帯が見えてくる。右手には沼地もみえる。現在この辺りは埋め立てられて、大規模住宅団地となっている。宿を出て約一里(四キロメートル)位か。おそらく時間は八時頃。湿地帯のきれいな湧き水のある所で大八車を止め、冷たい清水で喉を潤し汗をふいたことだろう。子どもたちも元気になった。ゆっくり休んでさあ出発。今度はやや長い上りの道となる。休んだ体にまた汗が吹き出してきた。坂道を上りきった十字路あたりから(註⑥)福田村に入る。目指す三ツ堀の渡しまで約半分の道程を来た。
この道筋は現在の県道野田・牛久線である。
一九五七年四月一日野田市に編入。人口・四七八七人(一九一九《大正八》年)
■守谷道(ミチ)を福田村へ
坂道を上りきった十字路を、一行は右に曲がった。この付近の地名は「鹿野」という。鹿野の十字路を直進して行くと「木野崎の渡し」。行商団が目指す茨城県に行くにはこちらの方が近い。なぜ行商団はより遠い三ッ堀渡しへ向かったのだろうか。茨城県側の目的地が三ツ堀渡しを使った方がより便利だったからだろうか。
この道は昔から守谷道といわれこの地方の主要な道である。かってオオカン(往還)とも呼ばれ、道は二間半(四・五メートル)ほどの、雨が降ればすぐにぬかるみ、馬車の車輪がはまってしまうほどの悪路であったが、昭和初期に砂利が敷かれ整備されたという。行商団が大八車で通ったころはまだ整備されていなかったようだ。現在でも交通量の多い街道である。松林から続いて畑が続く純農村地帯が広がる。真っすぐな道でさらに日陰も少なくなった街道を行く。
この道筋は現在の我孫子・関宿線である。
■自警団に見張られていた
日差しも高くなってきたので、一路目指す三ツ堀渡しへと急ぎ足で行く行商団。
この一行の様子を「怪しい集団」と、前や後ろから見張っていた者がいる。警察や自警団である。
大震災の翌日(九月二日)に東京、九月三日から四日にかけては神奈川、埼玉、千葉の各県に戒厳令が敷かれた。と同時に消防組、在郷軍人会、青年団を中心に(註⑦)自警団が各地に組織されていく。官民一体となって「郷土(むら)を守れ、特に『不逞鮮人』を厳しく取り締まること」とされた自警団はここ千葉県東葛飾地方でも多く組織され、日夜、町や村中を警戒していた。警戒する第一の仕事は、不審者の検問であった。震災発生後五日経った九月六日頃は、流言藍語も乱れ飛んで自警団も極度に疲労、更に大変な興奮状態にあって、異常な雰囲気であったのではないだろうか。
売薬行商団は一五人の集団である。警戒している自警団には不審なそして異様な集団に見えたのだろう。人通りもない早朝の町を過ぎ村落に入って行く頃には、行く先々で待ち構えていた自警団の尋問を受ける。
「事件当時六歳だった。自宅近くの街道をぞろぞろと行く集団を見た。見た人とみんなで『あの集団はなんだろう』と話していた。聞いた話では三ツ堀渡しに行く前に、福田村内で四ヶ所の自警団に不審者として尋問されたそうだ。無事通過して行った。それがなぜ三ツ堀であんな事になってしまったのだろうか」
「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女一五人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する。(中略)異常な事態に興奮し、ことあらばと待ち構えていたにとしか考えられない」
暑さも厳しくなってきた一〇時頃、漸く三ツ堀集落に入ってきた。ここ三ツ堀には旧福田村役場などがあり、村の中心的な地域であった。現在も小・中学校や郵便局、農協支店、公民館等がある。福田公民館はフィールドワークの際の学習会場や、追悼式の会場として使用させていただいている。郵便局を過ぎて大きく右に曲がってから少し行くと、左手に酒、雑貨を扱う商店がある。
ここも小さな十字路になっている。左に曲がる。正面に石鳥居(寛政一一《一八〇〇》年建立とある)とうっそうとした木立が見える。香取神社である。事件当時、神社手前には茶屋があった。さあもう少し。こ)の神社に続く道はカムラ(旧加村・現在の流山市加)街道と呼ばれ、かつて三ッ堀河岸に降ろされた荷物などが流山や江戸に向かうのに利用されたという。
福田村の村長、消防組長、青年団長、そして駐在所の巡査は、守谷道から入ってきた一団を確認した。回りには福田村内各集落から駆けつけた自警団員。応援の隣村・田中村の自警団もいる。みな手に手に武器を持っている。トビロ、刀、こん棒、竹槍、なかには猟銃をもっている者もいた。およそ二〇〇人位か(大前春義さんの証言)。
こうして野田町の「いばらきや」を早朝出発した売薬行商団一行は、一一時頃漸く三ツ堀渡しの場所に近づく。神社の木陰の石鳥居の下に六人、茶店の床几に八人がすわる。支配人の亀助さんは渡しの船頭さんと交渉している。
「この人数と荷物を船に乗せて欲しい」、「いくらで渡してもらえるだろうか」。
休憩している行商団一行の回りに興奮状態の自警団がいる。
「言葉がおかしい」、「朝鮮人ではないか」、「不審な者達だ」
次々と言葉が浴びせられていく。村長ら主だった人が「日本人ではないか」と言っても群衆は聞かない。なかなか収まらないので駐在の巡査が本署に問い合わせに行く。惨劇はこの直後に起こった。
駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態を止めた時には、すでに一五名中子ども三人を含めて九名の命が絶たれていた。
惨劇のあった事件現地の香取神社は、八十年前とまったく同じ状況で今も静かに建っている。
九名の遺体は利根川に流されてしまった。犠牲者の故郷香川県にはうち八名の墓がある。お骨の入っていない墓である。犠牲者遺族が香川県で守っている位牌には「大正一二年九月六日千葉県東葛飾郡福田村三ッ堀渡しで惨死す」とある。ただし犠牲者の一人は、お墓も位牌もない。
■野田市三ツ掘地先の利根川河畔に立つ
香取神社から坂道を下ると、ここは旧東葛飾郡福田村三ツ堀渡し跡。
現在、広大な河川敷の左手には、一九七七年開設の野田市パブリックゴルフ場ひばりコースが緑の芝生を視野一杯に広げている。時折ゴルファーの爽やかな声も聞こえてくる。右手も運動広場。川の流れの方に向かうと葦の茂った先に柳の大木が見える。途中に小さな水神さまがある。二つの古い石碑には「水神宮宝暦三年二月」(一七五四年)「水天宮天保十一年(一八四一年)下総の国葛飾郡庄内領三ツ堀村」とある。交通の要所としてあった三ッ堀渡しの水難や通行人の安全、そして村への水害を少なくとの願いを込めて先人は建てたのだろうか。もう一つ真新しい石鳥居が建てられている。一九九八(平成十)年建立の真新しいものである。地元の人の話では木造の鳥居では増水の時に流されてしまうので、香取神社氏子中八三戸の総意で石作りに建て変えたという。現地フィールドワークに来てこの真新しい石鳥居をみて、「福田村事件の追悼碑も同じ場所に建立されていたら良いのに」といつも思う。
葦の間を抜けると、利根川の流れにあたる。ゆるやかに流れる川幅は二〇〇メートルぐらいあろうか。水深はあまり深くないようだ。水の澄んだ時期は魚もよく見える。対岸は茨城県守谷市。(事件当時は野木崎村)天候の良い日は遠く筑波山をみる。ここは利根川河口の銚子から約一〇〇キロメートル、利根川の中流に位置するところ。少し下流の砂地が見える所は鬼怒川の合流地点。すぐ近くに常磐高速道が見える。
ここは昔さまざまな人が行き交った旧三ツ堀渡し跡である。
そして、九人の命が奪われ遺体が流された場所でもある
■福田村事件はここで起こされた
「被害者売薬行商人の妻が渡船場の水中に逃げのび、乳まで水の達する所で赤子をだき上げ『たすけてくれ』と悲鳴を上げていたみじめな事実の取調べに対しても、(中略)また猟銃や竹槍、日本刀を持って、船に乗り込み逃げんとする被害者を殴ったり蹴ったりした取り調べに対しても、(中略)利根川を泳いで逃げだした被害者を日本刀で斬り付けた事実も」
(「國家を憂えて遂に殺人をしました福田村事件の公判」『東京日日新聞』一九二三年一一月二九日房総版)
四季折々の自然が豊かに迎えてくれる利根川河川敷の旧三ツ堀渡し跡。この付近でこの新聞記事のような、起こってはならない虐殺事件が八十年前にあったとは、事実を知らない人には信じられないかも知れない。
また同じ時期に、関東一円を中心に六千六百人以上ともいわれる朝鮮人虐殺。数百人の中国人虐殺。さらに様々な階層の日本人も各地で軍隊、警察そして自警団等に虐殺されている。
■おわりに
事件当日、一九二三年九月六日、天候晴れ、平均気温二四・四度(気象庁調べ)。
七九年後、二〇〇二年八月六日、天候晴れ。同じ時刻頃に事件現地に向かって、行商団の歩いた道を自転車でたどってみた。八月の真夏の日が強い中でたどったこの距離は正直遠い。帰路は大変疲れて自転車を降りてしまうこともあった。
現在と違う八十年前の条件の悪い中、生活を守り、家族と共に故郷から一〇〇〇キロメートルも離れた見知らぬ道を進んでいった一五人の人々と大八車。本当に大変だったと思う。
命を奪われた犠牲者九人。かろうじて生き延びた被害者六人も、既にこの世にはいない。犠牲者の遺族も少なくなっている。
事件後八十年のこの時期に、わたしたちは心を込めて追悼し、差別の不当さと人権確立、そして人の命の大切さを、永遠に心に刻んでいかなければならない。
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