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「広報もりや」 間違って殺され 流された四国人

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 「広報もりや」に思い出を寄せた高梨さんは母を追って、9月6日に南千住駅で上野発の常磐線に乗り、取手駅経由で常総線守谷駅で下車した。母は4日に実家に帰省している。守谷駅から母の実家に向かう途中で「あいつは朝鮮人かもしれない」と、数人の自警団員に尾行されたという。『関東大震災・国有鉄道震災日誌』によれば、高梨さんの母は大島町の知人宅から亀有まで移動して常磐線に乗車したことになり、輝憲さんは上野発の列車ではなく「上野方面から来る日暮里発での列車」に乗車したのだろう。 https://1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com/2022/10/blog-post_30.html  保存会会長の市川さんは福田村事件の被害者が尾行された様子を次のように語っている。「この一行の様子を〝怪しい集団〟と、前や後ろから見張っていた者がいる。警察や自警団である」。 https://1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com/2022/10/3_28.html  利根川の渡船と川船について『守谷わがふるさと』に記録されていたので、「広報もりや」の文字起こし紹介の前に目を通していただきたい。 『守谷わがふるさと』 守谷の歩み 交通 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0822405100/0822405100100020/ht000130 ②利根川の川舟▶戦前(毎日新聞社提供) ②③利根川の渡船場 大野村には我慢、下川岸、大柏下の三カ所に渡船場があり、いずれも村営であった。船は村費で購入し、入札によって渡船場守(船頭=実際の営業を請け負う)を決めていた。高野村にも明治六年(一八七三)に渡船場が一カ所設置されたが、昭和十年(一九三五)か十三年(一九三八)の大洪水の後閉鎖されてしまった。 ③野木崎下川岸の渡船料金表▶昭和5年 昭和五年大野村野木下川岸渡船賃銭定額 種別 賃銭定額  一、 大人 八銭  一、 小人 三銭  一、 人力車一輛(挽子共) 十五銭  一、 小形車一輛 四銭  一、 畜類(犬猿類) 三銭  一、 荷積車一輛 十銭  一、 自転車一輛 四銭  一、 荷馬車一輛(馬子共)

『関東大震災・国有鉄道震災日誌』から 常磐線の復旧と罹災民輸送

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『関東大震災・国有鉄道震災日誌』から 常磐線の復旧と罹災民輸送  『関東大震災・国有鉄道震災日誌』(2011年/日本経済評論社)から、常磐線関連の記述を中心に7日分を抜き書きした。  以前、『柏市史年表』から関連の抜き書きをしたが、常磐線復旧のあしどりがはっきりしなかった。関東大震災後の千葉県内での虐殺は、①東京方面からの罹災民に対して、②千葉県内で働く人に対して、③保護された朝鮮人などに対してに大別できるだろう。福田村事件の被害者は②だが、加害の側は①の中に〝紛れた朝鮮人〟を待ち構えていたのだろうか? それとも、②や③を対象にしていたのだろうか?   常磐線は 1896 ( 明治29 )年12月25日に日本鉄道海岸線として田端・土浦間が開通した。 1923年 9月1日(土) (一)国有鉄道損害大要  一、線 路 東海道本線東京蒲原間、横浜線、横須賀線……常磐線日暮里牛久間……北條線等に大小の被害があった。  二、通信線 ……その他東北、常磐、総武方面一帯の通信及び電話の回線は悉く被害を被り一斉に不通となった。  三、列 車 ……常磐線に於て客貨各一個列車……車輛脱線又は顛覆し即死者……。 (二)応急措置 (三)運 転  総武本線 稲毛亀戸間は一日夜軍隊を以て救援列車を運転した。 (四)工 務  一、鉄道第一聯隊屯営残留隊の応援の下に総武本線稲毛千葉間線路の復旧工事を始めた。  一、被害程度軽微の為め本日中に応急工事を完了したものは次の諸区間である。     常磐線 取手藤代間      〃  佐貫牛久間 (五)電 気 *「電気」は電話回線などの状況についての記述。  一、午後一時……同四十分上野我孫子間中継線一回線……を孰れも恢復した。…… (六)工 作  一、常磐線我孫子柏間で脱線顛覆した貨物第九二二列車は鉄道聯隊の援助によって午後六時恢復した。 (七)病 院 (備 考)九月一日より二日に亘り本省所属主なる建物の類焼時間は左のとおりである。  九月二日 自午後五時三十分 至午後七時 上野駅、上野運輸事務所、上野保線事務所、上野電力事務所 9月2日(日)  一、午後七時四十分赤坂離宮に於て親任式挙行せられ山本内閣が成立した。  一、非常徴発令が公布せされ(勅令第三九六号)、徴発し得べき物件が指定せられた(内務省令号外)。  一、東京市及び東京府荏原、豊多摩、北豊島

冊子『福田村事件・Ⅱ』その3 現地学習案内―福田村事件を歩く

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『別冊スティグマ第15号』(2003年3月20日発行) 編集:『別冊スティグマ』編集委員会 発行:社団法人千葉県人権啓発センター 『福田村事件・Ⅱ―80年を経て高まる関心』その3 現地学習案内 福田村事件を歩く―ドキュメント・売薬行商団の歩いた道― 市川正廣(社団法人千葉県人権啓発センター歴史調査部会) ■はじめに~フィールドワークの案内  マスコミ報道や、各種集会等での報告が進むにつれて、ほとんどと言って良いほど知られていなかった「福田村事件」が多くの人々に驚きを持って周知されてきた。まさに歴史の闇の中に埋没していた事件に光があたっての事である。そして今、事件が注目されて、現地学習=フィールドワークが多く取り組まれている。  事件の背景は様々であるが、何と言っても八十年前に起きた事件現場に立ってその臨場感を体感し、犠牲になられた人達を追悼すること。更に事件現地の周辺の状況の現代と過去を重ねていく作業をし、「福田村事件」を通じて自らの運動などの課題を照射する。  「福田村事件」は今に生きる「人権問題の教材」である。  フィールドワークの成果を各地での反差別、人権確立の為に活用してもらうようにお願いをし、案内をさせていただいている。  本稿では、事件当時の被害者の足取りを追いながら、以下「福田村事件」を歩く。 ■宿から野田町へ  「仏の三郎さん(仮名)」は木賃宿「いばらきや」の経営者でひとに優しく、宿泊する人や出入りの人、近在の人からも慕われていた。  一九二三年九月六日早朝六時頃、「まだ危ないから行かない方が良い」と心配する三郎さんが言うのを、「大丈夫」と言って支配人の亀助さん以下一五人の香川県出身の売薬行商団は宿を出立した。集団には二歳、四歳、六歳の子どもも、妊娠している女性もいた。足の不自由な人もいたようだ。三郎さんに調達してもらった大八車は、早朝のまだ人気の無い野田町の中心部に向かっていく。   木村知吉さん(旧・野田町住民)の証言 「関東大震災の時は、一五歳でした。学校から帰って来た時に家で立っていられないほどのドカンと地震がきて思わず座り込んだ。『いばらきや』は当時『木賃ホテル』と呼ばれていた。中の台(現・野田市中野台)にはここ一軒しか宿はなかった。二十人くらい泊まれたのだろうか、平屋であまり大きくなかった」 「震災のとき(註①)野田醤油工場から工場建設で

冊子『福田村事件・Ⅱ』その2 「福田村事件」とは/年表

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 『別冊スティグマ第15号』(2003年3月20日発行) 編集:『別冊スティグマ』編集委員会 発行:社団法人千葉県人権啓発センター 『福田村事件・Ⅱ―80年を経て高まる関心』その2 「福田村事件」とは 別冊スティグマ編集部 ■関東大震災と福田村事件  一九二三(大正一二)年九月一日、関東地方南部を中心に大地震が発生しました。いわゆる関東大震災です。東京、神奈川、千葉等関東地方各地で、地震による火災も加わり大きな被害が出ました。なかでも東京は、三日未明まで燃え続き、全市の三分の二が消失、横浜では全市街がほとんど消滅ないし全半壊し、この大震災による被害は、死者・行方不明者一四万三〇〇〇人、負傷者一〇万四○○○人、罹災者数約三四〇万人といわれています。  このように、関東大震災は日本の歴史上きわめて特筆すべき大災害(天災)でありました。  同時にこの大災害時に、日本の歴史上忘れてはならない六六〇〇人以上といわれる朝鮮人、七〇〇人以上といわれる中国人に対する大虐殺と、日本人社会主義者等への殺害事件がありました。さらに震災時の混乱のなか日本人も殺害されるという事件も各地で多発しました。事実無根の流言蜚語を信じて組織された自警団の民衆や、軍隊、警察が言語に絶する大量殺戮行為を行ったという歴史的事実は、まさに人災でありました。  この大震災と、流言蜚語の生み出した社会不安のなか、地震発生から五日後の九月六日に、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)の、利根川河畔にあった三ツ堀の渡し付近で、大震災のために組織され、警戒にあたっていた福田村、田中村(現・柏市)の自警団に、香川県三豊郡出身の売薬行商団一行一五人が、「不審者」として疑われ襲われました。そして一行のうち幼児、女性を含む九名が殺害され、死体は利根川に流されてしまうという大惨劇となりました。  事件の発生地が旧福田村であったことから、「福田村事件」といわれています。 ■被差別部落と行商  この事件については、長い間真相解明がされず、歴史の闇の中に封印されてきました。事件犠牲者は、香川県三豊郡の被差別部落の出身でした。厳しい部落差別のなか差別に負けず生活を守るために、遠く一○○○キロも離れた関東地方で商売をしていました。三豊郡は香川県水平社が旗あげしたところですが、差別の厳しい地域でした。たとえば「福田村事件」で七人の被害者の出たK

冊子『福田村事件・Ⅱ』 その1 「歴史の検証と人権」

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 『別冊スティグマ第15号』(2003年3月20日発行) 編集:『別冊スティグマ』編集委員会 発行:社団法人千葉県人権啓発センター 『福田村事件・Ⅱ―80年を経て高まる関心』その1 この冊子の一部書き起こしを数回に分けて掲載します。 まず〝その1〟として、巻頭言と編集後記を掲載します。 巻頭言では、この事件の謝罪する側の千葉県の人権団体として慰霊碑を建立するためのラストスパートを行う時期で、その賛同を得るための冊子であることが理解できるでしょう。編集後記では、慰霊碑建立後を見すえ、加害側の地域に人権を根付かせる考えが記されています。 〝その2〟では、目次にある「福田村事件とは」と「福田村事件関係概略史」を、続いて「現地学習案内」、山田昭次さんの講演録「関東大震災と自警団」を分割して掲載する予定です。 ■巻頭言 歴史の検証と人権 市川正廣(社団法人千葉県人権啓発センター歴史調査部会)  今から八〇年前に起こった「福田村事件」。歴史の中に埋もれていた「福田村事件」の真相解明をし、犠牲になった九名の追悼を事件後の八〇年を節目に行っていきたいとして、事件犠牲者出身の地香川県側と、共同の取り組みを始めて三年目を迎えた。  この間多くの人々の協力を得て、予想を上回るスピードで取り組みは進展してきた。  ①真相解明  ②記録集等冊子の発行  ③報告会、追悼式等の開催  ④追悼碑建立基金募集  ⑤事件現地フィールドワーク案内 などである。  「福田村事件」に取り組む今日的意味としての第一の課題は、まさに『人権問題』であることである。「福田村事件」が多くの人々の共感を得たのは、『人権問題』そのものへの共感である。部落差別、職業差別、民族差別、さまざまな偏見の凝縮が、複合的に重なって人の命が奪われていった。  事件当時と社会の状況はもちろん変化している。しかし「福田村事件」を通して見えてきた差別の問題は、今現在の『人権問題』として本質的に解決していない。  厳しい部落差別の結果として、四国香川県から幼少の子どもまで連れて、苛酷な売薬行商を関東千葉県で行っていた、被差別部落出身の人々のおかれていた差別の内実は現在でも解決していない。「福田村事件」に香川県、千葉県の部落解放運動団体が主体的に取り組むのは、差別の解消すなわち、まさに自らの解放を願ってのことでもある。  「福田村事件」を学習す

『柏市史 近代編』 抜粋 その3 福田村・田中村の事件

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『柏市史 近代編』 抜粋 その3 福田村・田中村の事件 p422 福田村・田中村の事件  流言に惑わされた民衆から襲撃を受けるようになった朝鮮人・中国人保護のため、戒厳令司令部は習志野の兵舎に一時的に収容することを決め、東京・千葉の各地に散在する人々を移送し始める。土村にも北総鉄道建設の労働者として朝鮮人がいた。九月六日、村長は各区長・在郷軍人分会長・同班長・青年団各分団長宛て、「村本在留の朝鮮人の取締に関しては地方民の安定を計らしむ為め、目下千葉町に開設中なる収容所へ両三日中に軍隊引率の下に収容可相成旨昨夜松戸警察署よりの電話通牒に接し」との報告を行い、 八日には習志野収容所への移送を完了し、同日「警察官署の委託と本村自衛との方面に於て昼夜眠食を忘れて偉大なる功績を挙げられ、為めに一昨夜以来平穏の域に達し村民の安堵を得せしめたるは各位の指導の宜しきと部下一同の協力に外ならさることゝ確信」と「朝鮮人に関する件」という感謝を表する文書を村内関係者宛てに提出した(酒井根区有文書一七三)。  しかし、習志野の兵営に収容された朝鮮人・中国人の生命が保証された訳ではなかった。何十人もの人々が収容所から軍隊の手によって連れ出され、付近の住民によって試し切りに等しい方法で殺されているのである。  当地域において悲劇が生じたのは九月六日のことである。その事情は次の通りである。  福田村ニテモ十五人ノ鮮人入リ来ルヲ認メ種々調査シ検見スルニ言語不明ニテ野田分署ヨリ来リタル時巳ニ八人ヲ殺害シタルニ依リ其八人の福田村ノ人ニテ殺シタリ、他ノ一人ハ利根川ヲ流レテ茨城県下ノ対岸ニ渉リタルヲ、 田中村ノ人船ニ乗リ福田村三堀下ヨリ出発シ其一人ヲシ殺シタルモノ  自警団を組織して警戒していた福田村を、男女一五人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する。警官がやってきたときには八人がすでに殺害され、一人は利根川に飛び込んで逃れようとしたが、騒ぎを聞き付けた田中村の自警団が船で追い掛け、その一人も殺害したというのである。残された人々から事情を聴取すると、彼らは香川県人の売薬商人であることがはっきりした。言葉の行き違いもあったのだろうが、異常な事態に興奮し、ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない。  各地でこうした事が発生し、直接手を下した人々は逮

『柏市史 近代編』 抜粋 その2 戒厳令の布告

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 『柏市史 近代編』 抜粋 その2  p.421 戒厳令の布告  第一次大戦後の社会運動の高揚に対し、内務省は社会主義者などを要視察人とし、日頃から特別な監視下に置いていた。大地震によって交通通信が途絶し、社会機能が麻痺する中でこれ らの「主義者」が虐げられている人々を扇動して暴動を起こすことを恐れたのである。都市においても農村にお いても定住する人々は、地縁的な繋がりの下で生活し、また日露戦争後に形成された青年団や在郷軍人会、警察の下部組織的な役割を持つ保安組合などに組織化されており、そう心配することはなかった。主義者や陰謀家の扇動の対象として恐れられたのは、工事現場に飯場などを形成して移動する労働者や、各地を移動する商人などの人々だった。さらに、大戦後関東地方にも急速に増えた朝鮮人労働者は、飯場などで働き民族的な差別に苦しめられていた。また民衆の中においても、日本の植民地になった朝鮮人や、日清戦争の敗戦以後、列強に蹂躙されている中国人を差別する意識も強くなっていた。  警察と軍は地震発生直後から秩序維持の準備を始め、千葉県習志野に本部を置く騎兵隊に帝都の治安維持のために出動することが命じられた。 出所の定かでない流言蜚語が二日の朝から飛び交い始めた。「朝鮮人が暴動 を起こした」という流言の伝播を追った研究によれば、権力中の周辺地域から始まっているともいわれて いる。このような事態に対処するため、戒厳令が九月二日に東京市、三日には東京と神奈川県に公布され、軍が治安維持に責任を持つ体制が築かれていく。  こうした噂は市域にも直ちに伝わってきた。 炎上する東京の煙が漂い、多くの人々が水戸街道を通って避難してきた。 東京・横浜近辺のどの地域においても、治安維持のために在郷軍人会や青年団、さらには大字や小字毎に組織されていた多くの人々が警戒のために動員された。松戸署管内においては丁度この頃、大字を単位とする保安組合の組織化が進みつつあった。 それは「日常起り易キ各種ノ損害ニ対シ隣保相団結シ関係官公署団体組合等連絡ヲ保チ、之ヲ未然防止シ組合内ノ安全ヲ期スル」ことを目的にし、安全当番を決め、災害防止・ 救護、犯罪予防、悪習弊風の芟除など、「松戸警察署管内保安組合又ハ土村保安組合ヨリ指示セラレル事項」を行うとされている(酒井根区有文書ニ七)。この保安組合規約の施行日が大震災の当

『柏市史 近代編』 抜粋 その1 震災の発生

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  『柏市史 近代編』 のp.417〜p.424を3回に分けて掲載します。 その1の「震災の発生」では、簡単に時代背景にふれ土村増尾に住む染谷伝次郎の書き残しを再録しています。 その2の「戒厳令の布告」では、前節の時代背景にふたたび触れ、警察や軍の伝令や流言が柏市域に伝わったことを叙述しています。 その3の「福田村・田中村の事件」では、まず柏市域の動きがまとめられ、いわゆる福田村事件も(おそらく)新聞記事などの資料、村の役員の所蔵品(や証言?)から事件の概要と経過までをまとめています。 今回、このように本ブログで市史の書き起こしをWeb上のあげた理由は、①これまで「福田村事件」関連の著作物等で多く触れられているが、そお全文に触れる機会が限られていること。②として、市町村史のデジタル化が進んでおり、『柏市史』も早いデジタル化が望まれること。③として、熊谷市などでは市史編さん等によって集められた資料をまとめた冊子を発行していること、などがその理由です。来年9月の100年を前に、関係自治体などではこれまでの資料を公開し、教育や学習、人権の啓発に役立ててもらいたいからです。 (こんご、このページに関連画像や資料を加える更新を行うことをご承知ください) 『柏市史 近代編』 抜粋 その1 p.417 震災の発生  大正一二年九月一日正午に発生した関東大地震は、東京・横浜という日本の中枢部を壊滅させるという大被害を与えると共に、その被害に動揺した人々の行動が大きな社会問題を引き起こした。大規模な天災が悲惨な人災をも引き起こした。震災は、無秩序に、無防備に、急激に肥大化しつつある近代都市の弱点を白日の下にさらけ出した。第一次世界大戦によるかつてない好景気と大正九年の激しい戦後恐慌という激変する経済社会と、身近においても発生し始めた小作争議や労働争議、社会主義運動の高まりの中で、人々は流動化する社会に不安を覚え、一部の人々は通常では考えられないような行動を取ったのである。市域もその例外ではなかった。  土村増尾に住む染谷伝次郎は、震災後間もない頃、その鮮烈な印象を書き残している。それによって市城の人々が震災をどのよう見、感じたのかをまず見ておこう。 大正十二年九月一日午前十一時頃ヨリ大地震始マリ仝(どう、同の古文字)日風モ有之、見卜東京大火災トナリ、聞ト八十八九ケ所ヨリ大火ト尤もモ家

2022年10月20日、千葉日報、四国新聞(など)

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  2022年10月20日 「千葉日報」(文字起こし) 「学び深め、次代に継承」 野田の市民団体 福田村事件99年で墓参り  関東大震災直後、旧福田村(現・野田市)で香川県の被差別部落出身の 行商人が殺害された「福田村事件」から99年がたった。事件を調査してきた千葉県の市民団体は19日、香川県にある犠牲者の墓を訪れ、発生から100年を前に「学びを深め、若い世代に継承していく」と誓い、手を合わせた。  団体は「福田村事件追悼慰霊碑保存会」(野田市)。事件を調査し、語り継ぐ活動を長年続けてきた。会員の島袋和幸さん(74)=東京都葛飾区はこの日、保存会としては2008年以来14年ぶりに被害者側の住民の案内で墓を巡り、経を読み、花を供えた。  1923年9月6日、薬行商15人が福田村や田中村 (現・柏市)の自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9人が殺害された。震災直後は「朝鮮人が暴動を起こす」とのデマが流れ、各地で朝鮮人らが被害に遭う事件が発生。自警団は行商を朝鮮人と疑い、弁明を無視して殺害したとされる。  被害者が声を上げられなかった時代が長く、事件が知られるようになったのは調査が始まった80年代だ。島袋さんは取材に「千葉の若い世代は加害の歴史を知らない人が多い。地域同士の話し合いや交流の場を作っていきたい」と語った。 写真キャプション:福田村事件の被害者の墓前で経を読む島袋和幸さん(左) =19日 *四国新聞(本社:香川県高松市)にも掲載されました。

『田中村誌』の一部抜粋

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  ▶抜粋にあたって◀ 1980年発行の『柏市史年表』での事件の初出は「福田村事件」ではなく、「田中村事件」と書かれています。当初、事件名は起きた場所ではなく、起こした人たちが住む場所で認識されました。 基礎的資料として知られていない『田中村誌』の次の部分を書き起こしました(変換ミス等は順次訂正していきます)。目次の画像(一部トリミング加工)を参考にしてください。  ・まえがきに相当する「田中村史第一巻編纂について」  ・田中村成立以降の「田中村役場」、「田中村の教育」と連続した部分 東葛飾郡田中村は、1889年4月1日 の町村制施行により、田中村・十余二村組合として成立しました。以下の抜粋を見ていただければ、初代村長が2カ月後に任命。村役場はそん1年後に開設されています。1954年9月1日、田中村は柏町、土村および小金町と合併し東葛市になりました。さいごの田中村長による「まえがき」に相当する文は「村史第一巻」となっていますが、二巻以降の発行はなかったものと思われます。「先般出版した」と書かれている『田中村の消防』は内容を吟味し、別の機会に紹介します。なお、『田中村誌』および『田中村の消防』では、福田村事件にはいっさい触れられていません。 なお、抜粋しなかった部分は、1923年に発行され、後に何度か復刊された『千葉県東葛飾郡誌』の田中村該当部分と〝同内容〟との印象をもちました。 ▷抜粋はここから◁ 『田中村誌』(柏市立図書館田中分館所蔵/発行1953年) 田中村史第一巻編纂について  時代の変遷は車の兩輪の如く、常に廻り、政治を掌るものによって一大轉換を余議なくされるものが多かろう。この変遷は將來に至らば、歴史となつて世人に追憶せられ、政治、經済、思想、文化等々強軟の教材として興味を持って尊び喜び迎えられる時代があろう。  変遷を握り軸となるもの、多くは政治で昔から政党をもつて必然的な禍であるとか、不可避の禍であるとか云っているが、立憲政治が議会政治である以上、政黨は政治の機構として必ず発生存在するものである。いかに政黨そのものを好まぬものも政黨の態度にあきたらぬ者も、政黨の存在を無視して否認することは出來ない。凡そ人間が一つの集団に於て政治的運營を爲すには、必ず政治的黨派が発生し、それが大なり小なり、善かれ悪しかれ何等かの働きを薦するのである。その働きに時代的變遷

生き残った人の「手記」といわれる文書

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  生き残った人の「手記」といわれる文書 前の投稿「生き残った人の証言」で、最後の質問で大前春義さんに示した文書の〝書き下し文〟を掲載します。 大前さんは「おそらくこういう書体から考えると、この文字は藤沢喜之助さんが書いた感じ」「当て字も入っています。総合的に見て、おそらくこれは喜之助さんが書いたものでしょう」と〝証言〟しています。 自筆の手記で、喜之助さんが実弟の名を「当て字」にすることはあり得ないとも考えられることから、この文書は検察の書記官が書いたものではなかいう考える関係者もいます。 *「手記」は漢字とカタカナのみを使用し改行がありません。〝書き下し文〟では、一部漢字をかなに(「有る→ある」など)、カタカナをひらがなにし、一文ごとに改行しました。この 〝書き下し文〟は協力者(故人)のワープロのプリントを書き起こしたもので、変換ミス等はそのままです。元の手記と照らし合わせる機会があれば誤り等を訂正したいと考えています。 ----------------------------- 野田を立ちて、福田村三ツ堀の渡場二町位手前で、寺と宮のある鳥居の側で休みて居りたところへ、福田村の駐在巡査が先にたちて後は、青年会・消防・在郷軍人十人位来て寺の鐘をついた。 最初は巡査が、君等は何処をと言うて、持参の品物や鑑札を調べると言うたから、巡査が調べると言うて調べられてそれから大勢の消防や青年が来て荷物を調べた後で、この人は日本人じゃと言う人もあり、また(朝)鮮人じゃと言う人もありて巡査とある人が、それなれば野田の警察署へ照会して見ると照会した。 そのうえ巡査は、これはいよいよ日本人であるから一時野田へ帰してくれと言うた。 それでも青年・消防は、これは(朝)鮮人じゃと言うて警察ごとき者を相手にすることないやってしまえと言うておりたが、中にはこれは日本人じゃわ、野田警察へ手渡しすると買うた人もあり、また、この場で殺してしまえと言う人が多かった。 また、野田へ帰しよりて騙し討ちにしてやらんか言うて所々で相談をしておりた。 それからこの者は、帰らせ帰らさんと言うて巡査・消防・青年はしばらく争うておりた所、■■■■が黒紙の扇子を持ちて居りたら、これは日本人の持つ扇子でない(朝)鮮人か志那人が持つ扇子であると言うて、言うから■■■■は、 これは志那人が販売してたのを冷やかしよりてまけたか

冊子「福田村事件の真相」 その3 ー生き残った人の証言ー

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生き残った人の証言 解説および聞き取り 香川県歴史教育者協議会 会長 石井 雍大 (ようだい) 関東大震災から5日たった1923年9月6日のことです。当時、千葉県野田にいた香川県出身の売薬行商人一行15人が、東葛飾郡野田村(現野田市)の三ツ堀の渡し場から利根川を渡り、茨城県へ移動していました。 三ツ堀の渡し場付近で、おりからの「朝鮮人騒ぎ」にまきこまれ、福田村、田中村の自警団を中心とする群衆に取り囲まれ、朝鮮人と誤認され痛ましくも9名(内1名は妊婦)が虐殺されるという事件が起こりました。事件が起きた場所にちなみ、福田村事件といわれています。 この事件に遭遇しながらも九死に一生を得て、香川県に帰りついた6名のうちの1人がこの証言の主人公、大前春義氏(事件当時は13歳)です。この事件を知り、1986年、香川県歴史教育者協議会の石井雍大・久保道生両氏が聞き取り調査を実施しました。この記録は大前氏との2度目の聞き取り調査の時採録したもので、朝日新聞市川支局の記者も同席しました。 石井氏所蔵の録音テープを、石井氏と大前氏のご遺族の承諾を得て掲載したものです。なお、掲載するにあたって次のようにしました。 1.明らかな誤りは訂正した。 1.文体は「です」「ます」調に統一した。 1.数字は漢数字に統一した。 1.カタカナは原則的にひらがなに変えた。 1.証言には註を付け、その箇所は文中に(註)印で示した。 ― おいくつですか  満で76歳(註1)、事件当時は13歳でした。 ― 震災の時はどこにいましたか  大正12年9月1日に大震災が起きました。この時野田にいました。野田はご承知の通り醤油の産地、キッコーマン醤油の町です。 ― 野田の前はどこに  群馬の前橋におりまして、そこから野田へ転地(行商の場所を変えること)しました。前橋には1か月ぐらいおりました。 ― どうやって移動しましたか  前橋から野田への移動は列車と徒歩でした。野田で約1か月ぐらいおりまして震災にあいました。 ― 三つ堀で商売したことはなかったのですか  KSさんと呼ばれる人が一行の支配人で、その人の使用人として私たちが使われていました。 売薬の販売業を主体として商売しておりました。(註2) ― 旅館の名前は  野田の旅館の名前は覚えていません。旅館の主人は私たちに「地震の余震があるし、朝鮮人の混乱で過ちが起きやす