福田村事件80周年と追悼碑建立-その2



「解放新聞(香川版)」第109号 2003年9月25日

福田村事件80周年N0.2

■福田村事件の背景にあるもの

 行商人の一行が野田の木賃宿を出発して三ツ堀の渡船場に着くまでの道中、付近の住民は家の陰から遠巻きに見ていた。「ほらあの人たちだよ」と灰毛集落の人達がヒソヒソ話をしながら見ていたことを新村勝雄さん(今年86歳で逝去、福田村最後の村長)が証言している。自警団も予め香取神社周辺に集まって待機していたと思われる。田中村自警団が緊急事態を告げる半鐘を聞いてから駆けつけたとすれば、こんなに早く現場に到着できない。あらかじめ手ぐすね引いて待っていたと考えるべきだろう。
 ところで事件の背景として、行商人や飯場労働者、朝鮮人などに対する排除と民族差別、職業差別があったと「柏市史」は指摘している。
 当時の農村は共同体として内部は固く結束していた。しかし外の人間に対しては閉鎖的であった。朝鮮併合以来、この地域でも土木工事現場や行商などで朝鮮人が増えた。「どこの人か分からない」との警戒心が高じて「危ない人」、「危険な人」との偏見が生まれ、ついには「地域の敵」と見なされるようになった。三ツ堀地区に隣接する瀬戸の旅館では、売薬行商人が宿泊するときに宿帳を駐在所に提出するほど警戒は徹底していた。千葉県警察は、「行商人を見たら直ぐ警察へ知らせよ」との防犯ポスターを張り巡らせていた。不正行商人かどうかは見た目では分からない。行商に対する偏見と敵対視がいかに厳しかったかが分かる。

■福田村事件と行商問題

 行商は香川県の部落産業であった。香川の部落は農村部に点在していながら、ほとんどが農業では生計を立てていない。多くは山の陰や水はけの悪い湿地帯にあり、そのうえ狭く、農業では成り立たたないからである。しかし勤めに出るにしても、能力も意欲もありながら差別して採用してくれない。そのため自立を目指す部落の人達は商業に活路を切り開いていった。商業といっても行商なら比較的少ない資金で出来るし、現金収入にもなる。こうして香川の部落では行商が一般的な仕事になった。福田村事件が起きる3年前には、3割近くの家庭が行商を主な生業としていた。
 行商が扱う品物は、肉や魚、野菜などの食料品から衣類のような日用品や雑貨、薬など様々であった。また、靴修理や傘の張り替え、家具の修理や演歌の流しなど、自慢の腕やノドなどの技術を売って歩く行商人も多かった。さらに新聞や雑誌などの古紙、使わなくなった鍋釜等の金属類や衣類などを買い取る行商人も多かった。この様な古物商は「ボロ買い」などと蔑視されたが、資源節約に貢献した。今では資源の再生利用として大切な役割を果たしている。
 中には福田村事件被害者のように、関東や東北まで一家総出で長期間行商に出る人たちも少なくなかった。行商はどんな役割を果たしていたのか。
 高松市の和田浩さんは、「私は茨城県久慈郡水府村という農村の出身。子どもの頃は定期的に薬売り行商人が来た。一人は春に、もう一人は秋に来た。女性たちは行商人とお茶のみ話にはなを咲かし、子どもは色の美しい紙風船をもらってうれしかった。お腹をこわしたり風をひいたりしたときでも、医者のいない山の中では、この薬で間に合わせたから、私たちにとっては薬売り行商人はありがたい存在だった。私の村に来ていたのは富山の薬売りだったけど、隣村の親類の家へは香川の大山さんという人が来ていた」と、感謝の一気持ちを語っている。
 行商人は都会と僻地を結ぶ文化の運び手としても活躍した。



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