冊子「福田村事件の真相」 その3 ー生き残った人の証言ー
生き残った人の証言
解説および聞き取り
香川県歴史教育者協議会 会長 石井 雍大(ようだい)
関東大震災から5日たった1923年9月6日のことです。当時、千葉県野田にいた香川県出身の売薬行商人一行15人が、東葛飾郡野田村(現野田市)の三ツ堀の渡し場から利根川を渡り、茨城県へ移動していました。
三ツ堀の渡し場付近で、おりからの「朝鮮人騒ぎ」にまきこまれ、福田村、田中村の自警団を中心とする群衆に取り囲まれ、朝鮮人と誤認され痛ましくも9名(内1名は妊婦)が虐殺されるという事件が起こりました。事件が起きた場所にちなみ、福田村事件といわれています。
この事件に遭遇しながらも九死に一生を得て、香川県に帰りついた6名のうちの1人がこの証言の主人公、大前春義氏(事件当時は13歳)です。この事件を知り、1986年、香川県歴史教育者協議会の石井雍大・久保道生両氏が聞き取り調査を実施しました。この記録は大前氏との2度目の聞き取り調査の時採録したもので、朝日新聞市川支局の記者も同席しました。
石井氏所蔵の録音テープを、石井氏と大前氏のご遺族の承諾を得て掲載したものです。なお、掲載するにあたって次のようにしました。
1.文体は「です」「ます」調に統一した。
1.数字は漢数字に統一した。
1.カタカナは原則的にひらがなに変えた。
1.証言には註を付け、その箇所は文中に(註)印で示した。
―おいくつですか
満で76歳(註1)、事件当時は13歳でした。
―震災の時はどこにいましたか
大正12年9月1日に大震災が起きました。この時野田にいました。野田はご承知の通り醤油の産地、キッコーマン醤油の町です。
―野田の前はどこに
群馬の前橋におりまして、そこから野田へ転地(行商の場所を変えること)しました。前橋には1か月ぐらいおりました。
―どうやって移動しましたか
前橋から野田への移動は列車と徒歩でした。野田で約1か月ぐらいおりまして震災にあいました。
―三つ堀で商売したことはなかったのですか
―旅館の名前は
旅館の主人に荷車を借りて、15人が荷物を満載して利根川の渡船の渡し場へ行きました。利根川の本流で「坂東太郎」という名称がついていました。荷物をたくさん積んで徒歩で渡船場まで行きました。
―支配人が行こうと強行したのですか
その頃(三豊郡の)Tさんが東京におったんです。広島におったんですけど何かの関係で関東に来ておりまして、一緒にやろうということになりました。私は大正12年3月、郷里香川県を出発しました。
―いくらで雇われましたか
その当時月給は月15円(註3)ぐらいでした。15円というと当時は高給だったらしいです。相当年配の方でも20円とか25円でしたね。私は少年の給料、15円をもらっていました。
―いつから行商をしていますか
尋常6年の卒業免状をいただいて京都へ行ったり、東京へ行ったり、帰ったりと転々としてい ます。今でいう小学校6年から行商に出ました。千葉へ行く前には京都の四条に、京都へ行く前は大阪天神橋、京都から群馬へ、そして千葉の野田へ行きました。野田から茨城へ転地しようとしていました。県境ですね。向こうへ渡ろうと、茨城県の方へ転地する目的で野田を出発しました。9月1日から1週間ぐらい地震の余震がありました。宿の裏に藪があって、そこを刈り取って戸板を敷いてかや(註4)を吊って藪の中にいました。
―ジコタとは何ですか
安く薬品の販売をする行商人のことです。これは符丁ですね。
―どんな薬を扱っていましたか
主として正露丸ですね。それから頭痛薬、風邪薬、湯の花(註5)そういう種類です。
―どこから仕入れていましたか
高松です。高松で名前は忘れましたが店主は廣瀬ヤソキチ(註6)(ヤスキチかコウキチか、 発音不明瞭で聞き取り困難)。薬品の営業鑑札は廣瀬さんが手配していました。県の薬務課の方から取っていました。年令と名前をきちんといって。他にサービス品として学用品なども売っていました。鉛筆とか靴、墨とかもね。
―野田の旅館を本拠に支配人が行商の計画をたてたのですか
彼は宿にいて販売に出ませんでした。奥さんは子を連れて売りに出ていました。大きい方の娘さんは4歳ぐらい、息子さんは2歳ぐらいでした。 その息子さんをおぶって奥さんは行商に出ていました。娘さんの子守りは彼がやっていました。
ーどんな宿でしたか
旅館は高級なものではありません。まあまあ中流以下です。汚いけれどその当時は木賃宿というのがあって、これが一番最低のものでした。その次が商人宿、一番高級なのが旅館。商人が商売で使うのは商人宿。行商人は木賃宿に泊まるのが普通でした。
ー大震災の時はどこにいましたか
支配人は非常に意思の強い人でした。 売り子に対しては非常に厳しかったです。彼は一日も休 ませてくれませんでした。
私たちが各戸に訪問しますと、消防団(当時は「消防組」/保存会)とか警備員とかがずっとついて来て、家に入ると3人ぐらいが竹竿を持って「おまえ、どこから来たのか」と聞くので鑑札を見せ、信用してもらって奥で話をしました。家の人も「この人は朝鮮人ではないと思います」と言ってくれました。このようにして(木賃宿へ)帰ってきたことが何回かありました。
最後に土地の駐在さんが「本官は(行商人一行を)日本人と見なす」と言ってくれました。青年団の団長は「全員が日本人だ」と証言してくれました。ところが、駐在さんがいくら日本人であると証言しても、「日本人やったら野田へ連絡とって、野田署の判断を求めたうえで皆さんに納得してもらうべきだ」ということになり、駐在さんは野田へ連絡をとるために野田署へ行った訳です。(駐在さんの連絡をうけて)野田署からは部長さんがオートバイで来ておったんですが、それが途中で故障しました。それで農家で馬を借りてそれに乗ってこちら (三ツ堀)に来ました。そうこうしているうちに(この間に)私たちは太い針金で首をくくられて、両手を縛られたんです。
―針金ですか
鉄の針金です。首から上に抜けられん程度にくくられました。部長さんが「皆さん、9人はもう処置しているわけです。6人残っている者をほどいて・・・・」と。そして私たちは「話があるから」と船頭さんのいる陸の道の方へ呼ばれ、藪に隠れていたのですが出て行った訳です。この時に銃声が二発ぐらい聞こえました。
―九人がやられたときの様子は
喜之助さんという人の弟さんのTKさん、それにMNさん、この方が虐殺の発端になったんです。床几に座っていたんだけど、立ち上がって近くの農家に煙草の火を借りに行こう としたんです。それを「逃げよるー」となったもんだから、逃がしたら厄介なことになるという ので大勢が「殺(や)ってしまえ!」ということになりました。第1番にMNさんの頭に鳶口(註8)が、後は血柱がパーッとあがりました。TKさんは一応松林の中に逃げ込みましたがすぐに追い 掛けられて、殴ったり突いたりして殺されました。私はMNさんが殺されるのをすぐ目の前で目撃しました。
―何人ぐらいが集まっていましたか
最終的に2000人(註9)ぐらい集まって来ました。というのは、部長さんが「六人の身柄は預かる。本官は日本人と見なす。ただし本官の言うことが違っていたら皆さんにはどんな申し訳でもする」と言いました。私は警察に一週間置かれました。
―後の人は
MAさんも亡くなりました。この方は日本刀で肩を落されました。私らは渡船場の方へ逃げました。これは聞いた話ですが(MAさんは)片腕で川の中間まで泳いでいったそうです。
―女・こどもはどうなりましたか
ほとんどは殴られたり突かれたりして息たえだえでした。生き延びようとした人は全員利根川に放り込まれました。猟銃を2発聞いていますが、誰がやられたかは見ていません。
―猟銃でやられたのは誰ですか?
MNさんとTAさんかも分からないし、見ていませんから......。 TAさんは鳶口で頭を割られました。MNさんも鳶口で。MAさんは日本刀でやられました。駐在さんはこの時連絡をとりに野田署へ行って、現場にいませんでした。一時間ぐらい待たされたでしょうか。惨劇はその間に起こりました。
―駐在が待てという間の出来事だったわけですか
駐在さんは「署の方へ連絡をとって一応、署の承認をへて処置しよう。それまでは手を出して はいかん」と言って立ち去ったのです。上層部の方は「日本人だ」と証言してくれるんです。青年団の団長とか消防の分団長とか村長さんとか駐在さんとか全員が「こういう方言を使うんだ」 と言ってくれたのですけど、野次が多かった。「こいつらは朝鮮人に間違いない」「殺ってしまえ、殺ってしまえ」と、来る人来る人が確認もしないで「朝鮮人だ、殺ってしまえ殺ってしまえ」 というものばかりでした。
―行商の顔見知りの人はいなかったのですか
行商で家庭訪問しても、そう何時間もおりません。10分か15分ぐらいしか居りませんから親しい人もおりません。朝鮮人と日本人との見境がつかなかったので、私は君が代を歌わされまし た。イロハ47文字も全部言いました。「これだけ言うのだから絶対に朝鮮人でない」と幹部の方は言ってくれましたが、大勢の方の中には「日本に3年おったら君が代やイロハぐらいは覚える。誤魔化されたらいかん」「朝鮮人に間違いない」という人が多かったのです。野次が多くてやられたわけです。
―喜之助さんはお経を詠んだと聞いていますが
小児まひで足が不自由な人もいました。「私はこんな体だから逃げろと言ってら逃げられない。ここにおりますから、皆さんの方で楽に殺してくれるなら殺してください。逃げも隠れもしないから子どもは助けてくれ」と言いました。その間に9名が殺されました。
―川へ連れていかれたのですか
そうです。9名は全員鳶口かなんかで傷を負わされて絶命した後、一部の人は藪の中に逃げていたが猟銃で撃たれました。銃声が2発聞こえたのでこれはエライことになったと思いました。
―誰が手を下しましたか
1人に対して15人も20人もかかってきました。だから同士討ちみたいでした。持っている凶器がぶつかりあって「カチン」「カチン」と音をたてていました。蟻がたかるみたいにたかっていました。
1週間、警察で保護されて記憶に残っていますが、吉田さんという刑事がおって、私が一番最年少でしたから「うちに同じ年ぐらいの息子が居るから家へ行かんか」と言ってくれました。二晩ほどその刑事さんの家に泊めてもらいました。そしてその息子さんと遊びました。「ありがとうございます。でもやっぱり郷里に帰らしてもらいます」と言って帰ってきました。
―食事は警察が出したのですか
1週間ぐらい保護して頂いて「もう大体良くなったから国に帰りなさい」ということで、最年配のYSさんは身分証明書と罹災者乗車証をもらって「これを持っていたら安心して帰れるから」 といわれ、これを持って帰ってきました。避難民として扱われました。
―野田から東京へはどうやって
列車です。日暮里の手前に鉄橋があって、鉄橋の上を通って東京へ入ったと思います。東京市内の災害にあった人たちの遺体が、江戸川に材木のように流れていました。昔あった小さい軽便鉄道、一箇ずつの列車です。これで東京まで行きました。東京からは草津とかあの辺を通って帰郷しました(註10)。
―帰りのお金はどうしましたか
全部親方に銭は渡していました。帰りは警察で若干出してくださいました。「これをお小遣いにして帰りなさい」と。交通費は避難民は無料でした。各駅で、婦人会の方が列車が通るたびに窓から食物を差し入れてくれました。帰る途中は皆さんが親切にしてくれて何の不自由もありませんでした。
―なくなった人たちは
YAさんは奥さんと一緒に帰ってきました。
―自警団に囲まれた時はびっくりしたでしょう
部長さんが来られたので私は間一髪で助か りました。部長さんが一秒でも遅れたら首を 切られていました。
―帰ってからは
帰って1週間か10日ぐらいたって、その後丸亀の区裁判所へ来なさいという連絡がありました。それで丸亀の裁判所へ2回行きました。その時の行きの補償は1円20銭か30銭、補償してくれました。
―六人みんな行きましたか
震災から帰って私は京都へ行って、平安高等予備校へ入りました。牛乳配達したり新聞配達しながら立命館の夜間部で1年間勉強して、また東京へ行きました。そして法政の夜学で1年間勉強しました。大災害がヒントになって自分を知らなくてはと、父の了解を得て1人であちこち行きました。家の方は15歳ぐらいですから半信半疑ですね。
支配人の方は厳しい親方でした。この方がもう少し穏健だったら私らは助かったと思います。宿の主人が「今のところは静まっていないから、茨城へ転地するのを見合わせたら」と言うのに、無理をするんですね。それが災いの原因です。宿の主人の言うことを信じておったら、こういう不幸な目に遇っていないと思います(註11)。
―裁判のことは役場から知らされましたか
裁判については、何も誰も連絡してくれませんでした。何かの噂で自警団のメンバーが実刑をこうむったとか、6、7年の刑に服したという噂は聞きました。だけど直接は何も聞いていません。私は千葉から帰って名古屋へ行ったり京都へ行ったり、その間に父が聞いたかも分かりませんが、私自身は聞いていません。
―MNさんの弟さんは遺体を捜しに行きましたか
弟さんは遺体は見ていないし、押し流されているのも見ていません。殺された場所を確認に行った訳ですね。増水して遺体が岸の方へ流れ着いていました。それをまた川の真ん中に押し出して流したということを弟さんは見たのでなく、事実を聞いた訳ですな。それを私が聞きました。
―MNさんの出身地には位牌もないしお墓もないのですか
SKさん(註12)という人に聞いてもMNさんの実家にはありません。姻戚関係の人もいないから 位牌もなければお墓もありません。奥さんのNKさんはもともとこちらの出身でMNさんに嫁いだ わけです。SKさんに聞いてもMNさんの知己はないんですよ。姻戚関係の人もおらんから位牌もな いし墓もありません。だから無縁仏になっています。
―ご心境は
NKさんは実家がこちらだし、お母さんも存命だから一緒に帰ってきました。お母さんは最近亡くなりました。
―帰ってきた人は皆さん亡くなりましたか
存命しているのは大阪にいるMNさんNKさん夫婦の子供のMKさんと私と喜之助さんの三人。事件の現場におったのは二人です。MK当時1歳ですから事情は分かりません。 大阪でタクシーの支配人をしているとか聞いています。
―水平社へ訴えなかったのですか
香川県水平社の委員長は高丸義夫さんでした。YSさんとは親戚ではありません。
―大学の後は何を
京都から帰ってきて西陣の織物、そこの商品を仕入れて婚礼衣装、成人式の衣装などを主体に行商で売って歩きました。兵庫県の淡路島とか、最後は呉服を扱いました。衣料品をやっていま した。
―訴えていくところはなかったのですか
その当時は騒然としていました。相当治安が悪化しているから間違われやすいと、災難に会った人は本当にかわいそうだと、しかし「生きて帰って来たお前は幸せや」などとなぐさめられたわけや。殺害された人については間違われやすい状態にありました。朝鮮人と思われやすい状態にありました。だから「あきらめなさい」と言われました。水平社に訴えるなどとは思いもより ませんでした(註11)。
―ところで手記は喜之助さんの字ですか
おそらくこういう書体から考えると、この文字は喜之助さん(註15)が書いた感じですね。ほとんど片仮名が多いですね。当て字も入っています。総合的に見て、おそらくこれは喜之助さんが書いたものでしょう。文字を読んでいますと実感がでるような細かい文章になっていますからね。これは直感的に考えますと喜之助さんでないか、代筆ではこんな詳しい内容は書けないはずです。内容を拝読しましたら、おそらく喜之助さんの文字と思います。なかなかこれだけきめこまかく文章化するというのは、よほど自分が遭遇しないと分からないところがあります。おそらくこれは喜之助さんの字でしょう。2回目に持っていくための文章だったんでしょう。
註2 富山のように、薬を置いていて、定期的に巡る方式ではなく、行商方式であいった。
註3 コーヒー10銭、そば8~10銭、小学校教員の初任給40円、日雇いの賃金1日2円13(『値段史年表』、朝日新聞社)
註4 蚊帳
註5 温泉の底などにつく、鉱物質
註6 香川県の薬種商で唯一、廣瀬姓を名乗るのは坂出の廣瀬勇吉氏(坂出市港町創業明治25年)である。
註7 野外使用の腰掛け。床几の9名が惨殺され、鳥居の台石にいた六名は助かった。
註8 棒の端にトビのくちばしのような鉄製の鉤をつけたもの、消防士や人足が物をひっかけて運んだり壊したりするのに用いる道具
註9 先に「『うんか』=雲霞のように集結してきた」と証言されている。物凄い大勢の人と13歳の大前さんの目には映ったのであろう。2000人は記憶違い。
註10 鉄道省の当時の記録から、おそらく野田から柏まで軽便鉄道で出て、日暮里、田端、大宮へ、大宮から信越線で長野まで、長野から中央線で名古屋へ出て、郷里に帰り着いたと思われる。
註11 もう一人の生存者、喜之助さんは「木賃宿とはいえ、15人の宿泊費などの費用は大変だったに違いない。震災後5日もたつのだからとやむを得ず出発しいたと思う」と語られている。
註12 SKさんはMNさんの近所の方
註13 当時21歳
註14 香川県水平社結成は、1924年7月11日、観音寺町公会堂。
註15 喜之助氏は助かって帰ってきて間もなく丸亀区裁判所に呼ばれた。千葉地裁での公判に向けての準備かと考えられる。喜之助氏は書記官から「今日しゃベった事をまとめておくように」と言われ、B4版の和紙4枚に毛筆で手記をしたためた。
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