『松戸市史』にみる軍・警察・自警団と地元有力者

 常磐線は1896年12月25日に日本鉄道海岸線として田端・土浦間が開通した。
1911年、江戸川に木製の葛飾橋がかけられた。1927年、初代「葛飾橋」の場所より600mほど下流に二代目の「葛飾橋」が完成(1972年に架け替え)。1965年、150mほど下流に国道6号「金町バイパス」の「新葛飾橋」ができた。1923年の関東大震災での罹災者、2011年の東日本大震災では帰宅難民の多くがこれらの橋を徒歩で渡った。


『松戸市史下巻第2(大正・昭和編)』(松戸市誌編纂委員会編/松戸市/1968年)の438頁から445頁を書き起こした。当時の「消防組」を「消防団」としたり、「であっただろう」など推測のまま発行するなど、史実を確認せぬままの記述がめだつ。松戸市も、これまでの記述の誤り等をただし、関東大震災100年にむけて史実に沿った記録をまとめるべきである。

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『松戸市史下巻第2(大正・昭和編)』
第七章 大正の松戸
第九節 商工業と市民生活の変遷

438頁~
流言蜚語とその犠牲者

 震災が発生し、非常の事態が現出すると、陸軍大臣は東京衛戍司令官に指令して、近衛および第一師団に東京市を警備せしめ、主要建造物の警衛を厳にするほか、国府台、習志野、千葉、四街道、松戸などに駐屯する軍隊を招致して、東京衛戍司令官の管轄下に編入させた

 翌二日には緊急勅令をもって東京市および隣接五郡(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡)に戒厳令を布告した。更に三日にはその範囲を東京府と神奈川県とし、四日には埼玉県と千葉県が含められた。

 この処置は、大震災直後の混乱に対し、警察力では治安維持が困難となったためとられたもので、その一つとして千葉県下では東京に近接した市川・松戸・船橋・千葉および形勢険悪な状態にある佐原の各警察署管内に検問所が開設された。松戸署の管内では葛飾橋のたもとに警官四人、兵士七人を常駐せしめ、我孫子駅前には警官二名、兵士三名を常駐せしめている。

 以上のような中で、関東大震災発生直後の二日から十日ごろまでにかけて「社会主義者、不逞鮮人の暴動」という流言が真実のように伝えられたため、松戸市域住民も大いに動揺し、嘗てなかったほどの恐怖を味わされた。

 それも一日の激震のあとの余食につぐ余震、これに加えて交通、通信は全く杜絶し、唯一の正しいニュース源である新聞も入手できぬ状況下にあっては、東京方面から陸続として殺到する避難民の流言浮説に迷わされたことは無理からぬことであったろう。

 松戸市域住民がこのような流言に対してとった処置は、どこの地区ででも見られたような青年団・消防団・在郷軍人会などからなる自警団の組織結成で、この自警団がまたかなり興奮した状態下におかれたため、一触即発の危機をはらんでいた。つぎに「大正大震災の回顧と其の復興」によって松戸市域町村の状態をのぞいてみよう。

 中村成仙禅師の度量
 明尋常高等小学校報

大正十二年九月一日、未曾有の大震災に幸ひにも本村は災厄を免れたるも、余震頻々として襲来し、人心かでなく唯恟々としてゐた。時に早くも帝都大火災四十余ヶ所に起り、殆んど全滅との噂にて安から、折柄、西南方に当って異様の黒雲、雲であるか、煙であるか濛然と顕はれ灰燼天空より舞ひ落ち、不安は一層加はった。すは一大事と駆付けやうとするも交通社絶、通信不能唯西南の物凄い空を認めて焦慮するだけであった。依って明村青年団は挙って避難民を救助せんと準備した。南花島支団は救助に最も便宜な吉岡平蔵氏宅地の一隅を借受け、炊事場、救護所等を急設して麦湯、ふかしいも、握飯等を用意した。刻々と避難民は押かけ何百人かを接待した。されど益々避難者は増加するので、一層徹底的に救護せんものと二日午前五時支団一同協議を凝らした結果、教護所には本支団倶楽部(栄松寺)を当てゝ其の準備をした。午後になると不逞漢云々との流言蜚語盛に起り、一層人心に不安を加へた。為に救護団は自警団とかはり「不逞と見たらやってしまえ」の声起り、伝来の日本刀まで持ち出して意気をあげてみた。水も漏らさぬ警戒振りであった。此の時本支団顧問中村戒仙師は自警団詰所に来り、一同の様子に痛き何事ぞと問はれた。不逞漢に対する事情を話すと「それは以ての外である。無警察状態の折であるから何かの誤であろう。殊に彼等も尊き人類である以上保護するが当然だ」と警告された。団員一同は軍人迄も之に当るの時に於て、保護することは出来ないといって、端なくも殺気立ち論争となった。戒仙師は泰然自若として「其れまでの覚悟ならば、万一不逞の徒が現はれたなら捕縛しておれの寺に連れて来い。此の事が静まるまでおれが保護の任に当る」といって頑として動かなかった。「国家は如何なる時に当ってる人類の保護は平等でなければならぬ。其れがまた御仏の慈悲である。よし一二の不心得者があったにしても、全部がさうとはいはれない」と懇々と説かれたが、其の時は一同も殺気だって居たこととで、或者は「時に容れられざる説だ、我々の行為を邪魔する説だ、たとへ本支団の顧問だと云へ余り解らなければ真先にやってしまへ」等といふ者もあったが「成程」と心の奥に感じさせられた者も尠なくなかった。斯くして一日すぎ、二日すぎ漸く平穏にかへった。一月も経ってから一同は全くの彼の時はあはてたものだ、流言であった、蜚語であった、今になって顧みると「あの場合よくも和尚様はあゝいふ態度がとれたものだ」と感心してゐる。お蔭で一同も悔を後に遺すこともなく、平素の修養の必要であることを切に覚った。全く教化の大きいものであった。

 幸いにして明村の場合は以上のように平穏に過すことができたが、松戸市域の北部地区旧町村をはじめとする郡の北部町村などでは、このとき悲しむべき事態が発生した。なかには邦人を朝鮮人と間違えて殺すという事件も起った。このあたりの様子を松戸町報はつぎのように述べている。

 不巡鮮人来爆弾投下又ハ井戸ニ毒物ヲ投スル等風説類々リ、一般民ノ不安一方ナラズ。在郷軍人分会員、青年会員等何レモ慷慨悲憤、殺気凛々警戒ニ当リ要所々々ニ詰ムルモノ、巡羅警衛スルモノ数夜徹宵セルモノアリ。遥カニ東京府ノ水元村、金町村、新宿町方面ニ於ケル警鐘乱打ノ響、銃声ノ音、聞ク毎ニ慷概ノ念、憂慮ノ心転タ抑止スル能ハズ。此ノ時ニ当リ不逞鮮人爆弾投下、井戸ニ毒物ヲ投スルト云フ。流言蜚語ト云フ如キ事実ヲ確ムル遑アリヤ。否当時ノ情況ニ於テハ不可能ニ属ス。況ンヤ各地ニ於テ鮮人ヲ撲殺セリトノ報ヲ耳ニスルニ於テオヤ。幸ヒ本町二於テハ斯ル非行ヲ敢テシタルモノナキハ幸イトスル所ナリ。

 県が警察署長をして人心の落付きを求める通牒を一般市民に発したのはこのようなことがあってから後のことであった。

通牒

 災害ニ伴フ種々ナル流言蜚語到ル所ニ行ハレ、(中略)人心頗ル高潮ニ違セルヤノ傾向有之候モ、此ノ方面ニ対シテハノ出動ト相俟テ万遺算ナキ手配有之候条、青年団消防組其ノ他団体二於テ軽挙妄動無之様厳重注意セラルヘク此段及通牒候也、追テ本件ニ関シテハ至急左記ノ通り掲示セラルベシ

警告

 本県内ニ於テ不穏ナル行動ヲ為ス者ニ対スル警戒ハ軍隊ト協力シテ充分行届キ居り、不逞ナル者ノ立廻りナキ筈ニ付徒ニ流言蜚語ニ惑ハサレス、軽挙妄動ナキ様注意セラレタン

九月四日

警察署

 この当時県内に在住した朝鮮人は土工人夫三一七名、飴行商その他五四名、学生六名、雇人六名、人力車夫・職エら六名、歯科医一名の三九〇名でその多くは東葛飾郡に居住していた。県はこのうち状勢の悪化している地区内に居住する三〇九名と、東京より避難してきた多くの朝鮮人、中国人を習志野連隊廠舎に収容し、保護をすることとし、これが六日に完了した。このとき習志野廠舎に収容した数は四、七五三人に達した。

 号外 大正十二年九月六日
     東葛飾郡役所(印)
      町村長殿

鮮人ニ関スル件

 這般ノ震災ニ関シ鮮人対スル一般ノ態度険悪ヲ極メ人心恐々其ノ安定ヲ欠キ一般ノ薬務殆ンド休止ノ有様ニ有之、寔ニ寒心ノ至リニ不堪候、右ハ巷間伝フル流言蜚語ヲ宜伝スルモノアルニ基因スルモノニシテ決シテ憂慮スベキ状態ニ無之候間、此旨至急一般ニ周知セシメ其ノ安定ヲ期セラルベク此段及通牒候也
 追テ東京及其ノ近県二散在セル鮮人ハ全部習志野元捕虜収容所ニ収容スルコトト相成候間此旨併セテ周知セシムベク申語候

拝啓 愈々御清栄ノ段奉賀上候、扨テ今回ノ事変ニ就テハ御驚キノコト、奉拝察候、殊ニ鮮人ノ取締ニ就テハ多大ノ御後援ト御尽力ヲ煩ハシ候処、管内ニ集散セル鮮人ハ悉ク之ヲ収集シ、軍隊警備ノ下ニ本日習志野収容所ニ送致済ニ有之、対岸埼玉及府下ニ在住セル鮮人モ然ク収容済ニテ、最早彼等来往ノ虞ナクト思考セラレ候条御安神被下度候、連日連夜ノ御警戒ニ就テハ御労苦特ニ奉感謝候、先ハ右御通報旁々御挨拶申上度、時局混雑申ニ付テ干係各位へ可然御伝声相煩度候  敬 具

大正十二年九月七日
松戸警察署長
 町村長殿
 消防組頭殿
 軍人分会長殿
 青年団長殿
 其他重立者殿
追テ収容鮮人ハ百五十五名ニ有之候


習志野収容セル鮮人ノ情況

陸軍工兵学校(注・ゴム印)

一、九月九日習志野収容シタ支鮮人五百八十六名デ、累計約四千二百名、 内支那人千五百四十五名、鮮人二千六百六十九名デ、収容所ニ於ケル彼等ノ動作一般ニ平穏デアリマス

二、以上ノ様ナ次第デアリマスカラ毫頭モ心配ハアリマセン、皆様御安神シテ家業ニ御精励ヲ願ヒマス


 

陸軍工兵学校(注・ゴム印)

大覚悟ヲ要ス

千葉県下ノ要所/\ハ、モハヤ隈ナク軍隊ガ行キワタ リマシタ、県民諸君ハ毫頭心配スルコトハアリマセン、下ラヌ風説ヤ流言ニ迷ハサルルコトナク安心シテ生業二従事シテ御互ニ心ヲ合セテ今回ノ大災害ノ救済ニ対スル大覚悟ヲキメネバナリマセン

九月九日
千葉県警備隊司会部


 十日前後ごろともなると、かなり冷静さを取り戻してきたようである。それと同時に、事件発生の責任者の糾弾も厳しさを加え、先述の東葛飾郡中、北部七か町村から三〇名の関係者が起訴された。このことに驚いた関係町村有力者たちは、連名で嘆願書を作成し、千葉地方裁判所に提出した。しかし、同裁判所検事長は請願令第十一条第一項第二号に触れるとして受理しなかった。


嘆願書

東葛飾郡某村
被告 某
(以下略)

 乍恐以書面嘆願申上候次第ハ鮮人傷害事件ニ関シ右列記ノ面々重々不都合千万ニハ候得共前後ノ事情ヲ洞察仕ルニ誠不ニ得止場合憫然ノ点モ有之候マ、敢テ虎威ヲ冒シ陳情仕ル次第ニ御座候

 抑々今回帝都始メ附近ノ震害火災恐ルヘキ天変地異ハ空前ノ事ニ有之家財ノ焼失ノ如キハ夢オロカ親ハ子ヲ失ヒ妻ハ夫別レ焦熱地獄ノ苦ミヲ受ケ生キ乍ラ血河針山ノ惨苦ヲ嘗メ緩ニ身ヲ以テ免レシ罹災者ハ陸続踵ヲ続イテ水戸街道ヲ通過シ二日、三日以後ノ混雑ハ名状ス可ラサル情況ニ有之候 此時ニ当リ青年団軍人会消防組処女会ノ如キ一大活躍ヲナシテ救護事務ニ従事セル状況ハ賢明ナル御当局方ノ既ニ熟知セルコト、存シ茲ニ申上クルヲ差控エ申候 而シテ松戸署管内ノ如キ各駐在共概ネ東都応援 ノ為一時無警察ノ如キ状態ニ陥リ青年団軍人会消防組等ノ起テ非常ヲ戒メ自警団ヲ組織スルノ止ムナキニ至リシ折柄天ノ一方ヨリ飛電アリ 所謂鮮人多数京浜ヲ荒ラシ今ヤ陸続郡部ヲ襲撃スルト然カモ東京ノ罹災逃走者ハ親シク其ノ害ニ逢ヒシヌ物語レリ 夫レ今日ヨリ見レハ常識二於テ判断シ得へキ事件モ当時ノ現状ヨリ推察シテ全ク混乱セル社会状態ハ茲ニ一大悲劇ヲ生シ不祥事件ヲ惹起スルノ止ムナキニ至リ申候 勿論此道程二於テハ団体ノ訓練不足大国民トシテノ修養ニ欠キタル等一々ノ手落ハ有之候 モ一時ハ官憲モ共同ノ態度ヲトリ或ハ之ヲ黙認スル等当局者トシテモ周到ナル注意ヲ欠キシ点有之カト恐察仕候

 要スルニ東都罹災者ノ誤解セル遭難談同胞不慮ノ災害ニ熱情的敵懷心自警的恐怖心ノ興奮等幾多錯綜セル誤謬ヨリ一意国家町村ノ前途ヲ憂ヒ一家一身ノ危急ヲ救ハントシテ茲ニ至レル次第ニ有之候マゝ篤ト事情御憫察ノ上格別ノ御詮義ヲ以テ寛大ノ御処置賜ランコト奉懇願候次第ニ御座候 何卒御採納賜ランコトヲ 恐々謹言

大正十二年九月廿七日
         東葛飾郡 某町 某 (印)
              (以下略)    
千葉地方裁判所検事局
検事正山下覚次郎殿


 被告たちの判決はその年の十二月十五日に懲役一年六か月(三か年間執行猶子)、あるいは懲役一年六か月の刑の言い渡 しがあり、これが確定してそれぞれその刑に服した。いっぽう誤って邦人を殺した郡北部某村と某村の一○名は、大正十三年九月に刑が確定した。

 被害者はもちろんのこと、加害者もまた流言輩語の犠牲者であったといえよう。


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