『田中村誌』の一部抜粋



 ▶抜粋にあたって◀

1980年発行の『柏市史年表』での事件の初出は「福田村事件」ではなく、「田中村事件」と書かれています。当初、事件名は起きた場所ではなく、起こした人たちが住む場所で認識されました。
基礎的資料として知られていない『田中村誌』の次の部分を書き起こしました(変換ミス等は順次訂正していきます)。目次の画像(一部トリミング加工)を参考にしてください。
 ・まえがきに相当する「田中村史第一巻編纂について」
 ・田中村成立以降の「田中村役場」、「田中村の教育」と連続した部分
東葛飾郡田中村は、1889年4月1日 の町村制施行により、田中村・十余二村組合として成立しました。以下の抜粋を見ていただければ、初代村長が2カ月後に任命。村役場はそん1年後に開設されています。1954年9月1日、田中村は柏町、土村および小金町と合併し東葛市になりました。さいごの田中村長による「まえがき」に相当する文は「村史第一巻」となっていますが、二巻以降の発行はなかったものと思われます。「先般出版した」と書かれている『田中村の消防』は内容を吟味し、別の機会に紹介します。なお、『田中村誌』および『田中村の消防』では、福田村事件にはいっさい触れられていません。
なお、抜粋しなかった部分は、1923年に発行され、後に何度か復刊された『千葉県東葛飾郡誌』の田中村該当部分と〝同内容〟との印象をもちました。

▷抜粋はここから◁

『田中村誌』(柏市立図書館田中分館所蔵/発行1953年)

田中村史第一巻編纂について

 時代の変遷は車の兩輪の如く、常に廻り、政治を掌るものによって一大轉換を余議なくされるものが多かろう。この変遷は將來に至らば、歴史となつて世人に追憶せられ、政治、經済、思想、文化等々強軟の教材として興味を持って尊び喜び迎えられる時代があろう。

 変遷を握り軸となるもの、多くは政治で昔から政党をもつて必然的な禍であるとか、不可避の禍であるとか云っているが、立憲政治が議会政治である以上、政黨は政治の機構として必ず発生存在するものである。いかに政黨そのものを好まぬものも政黨の態度にあきたらぬ者も、政黨の存在を無視して否認することは出來ない。凡そ人間が一つの集団に於て政治的運營を爲すには、必ず政治的黨派が発生し、それが大なり小なり、善かれ悪しかれ何等かの働きを薦するのである。その働きに時代的變遷が生れてくるものである。現在盛んに行われている、町村合併等も最も顕著なる變遷と云えよう。

 上古に於て神別黨と、皇別黨とが斗爭して、其の結果は延いては蘇我、物部兩族を中心に崇佛黨と俳佛黨に別れ、互に相對して血なまぐさき爭を演じた。昭和の時代特に昭和維新の感あ る變遷極りないものがあろうか、いかに軍部万能の時があっても、憲法までは改正できなかつたゆるがざる世界に冠たる、吾が明治の大憲章と云った憲法も、敗戰によって難なく改正せられ、幾百万の国民は国の偽と云い乍ら戰場に、職場に、東京、廣島、長崎につゆと消え、又国策に協力して追放となり、数多き国民中戰争犯罪者として他国の憲法で刑死、又夏なお寒きシベリヤに中共に抑留の身となり、歸還するものあれば、未だ他国に內地の親妻子を想いつゝ歸らざるものあり、敬神敬佛の干渉は戰死者の忠魂の碑すら建設を許されず、皇統の有無迄論じ歎くあれば、喜ぶもあり、今平和憲法下總て自由となりたるも又、憲法の改正の聲しきり、中統政治に於ての小黨分立は昭和の戦国時代の樣想に似たものあり、昭和の變遷を記すには余りにも枚擧に遑なきものが在る。又往時に遡って大化の改新の頃は、藤橘兩族間に斗争が行はれ 藤原氏が政権を握って貴族專橫の時代を創つたかと思えば、武士階級の進出は貴族階級を脅威し遂に世は源平二豪族の武家政治に歸つた。源平の爭は昭和の黨爭を武力によつて行つたものである事を成程とうなずけるものがあろう。それより北條、足利の執政時代となり、その間、南北朝の対立となったが世は一轉して戦國時代の群雄割據を見たが、それが又今日の様な小黨分立時代であった。

上杉、武田、織田、豊臣えと推移し徳川時代となったが、幕末に及んで尊王黨熙佐幕黨或は、開國黨、操夷黨と称する幾多の政權は幾多の變遷を生んで、明治、大正、昭和の今日に及んで意外にも伝統ある町村も消滅して町村合併が生れ所謂昭和の一大轉換期となつた。然し前述の如く幾多變遷、幾脫皮の後、昔日の面影を偲ぶよすがにも、なすべき者は誰か、記錄をとゞめておかねば今日の現在のよつて來る所を知るすべもなく明日の予測も不可能になろう。今や國を擧げて町村合併の勢力は怒濤の如く、好むと好まざるにかゝわらず旧來の町村界を變更せられ 小規模町村は次々と消滅して行きつゝある。

茲に我が由緒ある田中村史として、記録にとゞめ置くが、後の世の語り草に資せんとして、村史執筆に志ざした次第である。

先般出版した「田中村の消防」は其の內容の一部である事を追記して、いよいよ巻を重ねて著さむとするものである。

 田中村長 田中朝吉


田中村役場

明治二十三年六月十日大室三三八番地豊島兵太郎の居宅を賃借して事務を開始した。事務所は、田中村十余二村の組合役場と称す。明治四十三年四月二十六日一を大室三三七番地に変更(現在の庁舎)。工費七五〇円を以て船戸石塚氏、早瀬座号請負現在の役場庁舎とす。大正三年十月十余二村と合併、田中村役場として現在に至り、昭和二十三年公民館を併置、新改築二階を会議室とし、今日に至る。 

明治二十年当時より昭和二十年迄村長助役は名誉職たり、創立当時は村長、助役、収入役、書記一名計四名の役場吏員で創設したのである。

村 長 
初代
 松丸 健
  自明治二十二年 六月 四日
  至〃 二十六年 七月十七日
二代
 砂川 権右衛門
  自明治二十六年 七月 三十日
(ママ)自〃二十九年 三月 二十日
三代 職務管掌
 津川 鎮夫
  自明治二十九年 六月  八日
  至〃 三十三年 六月  七日
四代
 平川 徹
  自明治三十三年 六月二十二日
  至〃 三十六年 五月  五日
五代
 染谷 馬司
  自明治三十六年 八月二十一日
  自〃 三十七年 六月二十五日
六代
 砂川 権右衛門
  自明治三十七年 九月 十一日
(ママ)自〃四十一年十一月二十九日
七代
 渡辺 春治
  自明治 四十年十二月 十五日
  至〃  四十一年 八月  五日
八代
 鈴木 利三郎
  自大正  二年 八月 二十日
  至昭和  二年 二月  九日
九代
 窪田 甚造
  自昭和  二年 二月  十日
  至〃   十年十二月二十八日
十代
 松丸 巌
  自昭和 十一年 十月  七日
  至〃  十五年 十月  六日
十代
 松丸 巌
  自昭和 十七年十二月 三十日
  至〃 二十一年十一月二十一日
十一代
 田中 朝吉
  自昭和二十二年 四月二十三日
  至〃 二十六年 四月 二十日
十一代
 田中 朝吉
  自昭和二十六年 五月二十一日
  至    現  在


田中村の教育

明治初年の頃迄家塾、寺小屋、六ー七ヶ所ありしゃ録するに足るものなく、花の井に松下堂と称す家塾あり、安政年間、高松芳□と称する儒者江戸より来り茲に居る芳□は自ら閣易に精通すると云ふを以て易蘇堂と号す。其の門人某当所の發戸、松丸仙右衛門を襲名して土着し、塾を興し松下堂と称し、子弟を教育す、没後養子繁藏、仙右衛門を襲名して家業を嗣ぐ、創立以来六ー七〇人の門弟を有し、寄宿の設備迄あり、 遠方より来り学ぶ者あり、当時に於ては頗る整頓せるものなりしと云ふ。明治五年学制発布に当り閉鎖せり。

又船戸に平久半兵、平久兵吾源在親なるものあり塾を開いて自ら子弟を養い、又、代官所役人交々来りて之を教えしと、又増田彌右衛門なる者あつて武道場を建て諸劍士、郷士は勿論、御役所役人迄来りて稽古を勤みしと、この道場物置として現在残るも昔日の面影なし。

明治五年学制発布の後、花の井小学校、大室小学校、大青田に大青田小学校、船戸に船戸小学校、十余二に三井小学校を設けたりしが、明治十九年に至り以上の五校は從前の名称のもとに尋常小学校と改称す。明治二十五年九月花の井尋常小学校と大室尋常小学校を併合して、田中第一寧常小学校と称し、船戸尋常小学校と大背田尋常小学校と合併して田中第二尋常小学校と称し、三井尋常小学校を廉して、十余二尋常学校を設置す。明治三十九年五月十日田中第一小学校に高等科を並置して、田中尋常高等小学校と改め、田中第二尋常小学校を田中寧常小学校と改む、 十余二尋常小学校は大正三年十月十日十余二村を廢し、田中村に合併するに当り田中村校に合併、田中尋常高等小学校十余二分敎場とせり、この学校も十余二分教場、飛行場になるに付、尙田中村経済の将来を考へ学校を一ヶ所に統一して今日に至り、昭和二十年終戦成るや六三制の教育平等を期に高等小学校を廢し、田中村中学校設置今日に至つてゐる。



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