「広報もりや」 間違って殺され 流された四国人

 「広報もりや」に思い出を寄せた高梨さんは母を追って、9月6日に南千住駅で上野発の常磐線に乗り、取手駅経由で常総線守谷駅で下車した。母は4日に実家に帰省している。守谷駅から母の実家に向かう途中で「あいつは朝鮮人かもしれない」と、数人の自警団員に尾行されたという。『関東大震災・国有鉄道震災日誌』によれば、高梨さんの母は大島町の知人宅から亀有まで移動して常磐線に乗車したことになり、輝憲さんは上野発の列車ではなく「上野方面から来る日暮里発での列車」に乗車したのだろう。
https://1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com/2022/10/blog-post_30.html

 保存会会長の市川さんは福田村事件の被害者が尾行された様子を次のように語っている。「この一行の様子を〝怪しい集団〟と、前や後ろから見張っていた者がいる。警察や自警団である」。
https://1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com/2022/10/3_28.html

 利根川の渡船と川船について『守谷わがふるさと』に記録されていたので、「広報もりや」の文字起こし紹介の前に目を通していただきたい。


『守谷わがふるさと』 守谷の歩み 交通

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0822405100/0822405100100020/ht000130

②利根川の川舟▶戦前(毎日新聞社提供)



②③利根川の渡船場

大野村には我慢、下川岸、大柏下の三カ所に渡船場があり、いずれも村営であった。船は村費で購入し、入札によって渡船場守(船頭=実際の営業を請け負う)を決めていた。高野村にも明治六年(一八七三)に渡船場が一カ所設置されたが、昭和十年(一九三五)か十三年(一九三八)の大洪水の後閉鎖されてしまった。

③野木崎下川岸の渡船料金表▶昭和5年

昭和五年大野村野木下川岸渡船賃銭定額
種別 賃銭定額
 一、 大人 八銭
 一、 小人 三銭
 一、 人力車一輛(挽子共) 十五銭
 一、 小形車一輛 四銭
 一、 畜類(犬猿類) 三銭
 一、 荷積車一輛 十銭
 一、 自転車一輛 四銭
 一、 荷馬車一輛(馬子共) 三十三銭
 一、 天秤担荷 四銭
 一、 一人乗駕一台 十銭
 一、 荷物一駄 十銭
 一、 自動車一輛 一円

 但水量標ニヨリ水位七尺以上五割増ノコト
    仝     十二尺以上渡船止
 危険ナリト認ムルトキハ此ノ限リニアラズ
 平水位ニ於テモ強風雨雪ノ場合ハ総五割増
 午後十時ヨリ翌午前四時迄ノ時間ハ総テ五割増

=・=・=・=・=・=・=・=・=

「広報もりや」第191号(1979年9月10日)掲載

郷土の歴史

関東大震災の思い出

高梨輝憲


 最近、国民の間にも地震に対する関心がようやくたかまり、それとともに大地震に対する政府の施策や施設の設置も大いにすすみ、すでに地震予知に関す伝達機関も整ってきている。
 ことしは関東大地震から五七年、関東地方も学者の唱えている「大地震六〇年周期説」をとれば、そろそろその時期に近づきつつある。

震源地は相模湾 死者一〇数万人

 そこで今回は大正十二年九月一日に起った大地震の時の思い出を語ることにしよう。
 関東大地震の震源地は相模湾 で、展度はマグニチュード七の烈震であった。被害は東京・横浜の両都市に集中し、死者一〇 数万人、焼失・倒壊した家屋は無数、その惨状は筆紙につくしがたいものがあった。
 大震災のとき、私は一九歳で被害の最もはげしかった東京の深川に住んでいた。もちろん、私の家も焼けたが、母と二人暮しであった私たちは無事にのがれ、一時大島町(現・江東区)の知人の家に身を寄せた。四日目に母は西大木(守谷町)の実家へ帰り、早くも家の再建準備にとりかかった。

親切であった田舎の人びと

 この時、田舎の人びとの同情と協力は非常に大きく、母の実家である新島家はもとより、叔母の嫁ぎ先である西板戸井の大久保周次・亀吉の一家、従姉の婚家である坂手村の佐戸井喜之三郎、遠縁ではあるが西大木の野口長次郎・西板戸井の塚田七平など諸家の尽力によって、たちまち建築資材が集り、その年の一一月には元の場所へ家を建てることができた。
 さて、話はもとにもどる。母は九月四日に田舎へ帰り、私は六日に母の跡を追って帰った。
 私が田舎へ帰るといっても、もともと東京生れであり、田舎へ帰るという表現はちょっとおかしい気もするが、両親の生れ故郷ということでこの言葉をつかった。
 当時、震災で被害をうけた人びとのことを一般に避難民といった。罹災地をはなれて遠くへ行く場合は、交通機関が無料であり、衣・食は、すべて行く先きざきの人びとが、温かい心づくしで配給をしてく れたので、少しも不自由することはなかった。
 九月六日、私は避難先の大島町から焼野原になった東京市内を通り、常磐線の南千住駅にた。どりついたのは昼近くであった。
 上野発の列車はすでに満員で鈴なりの状態であったが、私は、ようやく、窓からもぐり込み、取手駅で常総線に乗りかえた。
 常総線は全て無蓋車であった。やがて、守谷駅で下車し、それから西大木まで、野本道を指して歩きだした。
 そのころ「朝鮮人さわぎ」と いうのが全国的にひろがっていた。 これは東京や横浜が焼けたのは 不逞鮮人(ふていせんじん)が地震の混乱に乗じて爆弾を投じたり、火を放ったりしたからだといい、またそれと同時に、不逞鮮人が大挙して日本人を襲撃するなどのデマも流れ、日本人の朝鮮人に対する警戒心は異状にたかまった。
 実際、大地震とその後の火災 によって、被害は想像以上に大きかったので、京浜間の治安は相当に乱れた。
 この治安を維持するため、九月二二日(ママ)に戒厳令が布かれ、軍隊が出動して治安維持にあたったが、一般の人びとはそれでも 「朝鮮人さわぎ」に不安をいだき、自衛手段として、各地に自警団を結成して朝鮮人の放火・暴行を警戒することにした。

自警団・朝鮮人かと思えば尾行

 ところが、その自警団の自衛手段が、だんだんエスカレートして、ついには各所で朝鮮人をほしいままに捕縛殺害するような事件が各地に起った。
 さて、私が野木崎道を歩いて 大柏まで来たころ、見知らぬ男(私のこと)が一人でとぼとぼ歩いているのを、大柏あたりの自警団員が見とがめ「あいつは朝鮮人かも知れない」と思い、数人の団員が私を尾行しはじめた。だが、私はそのようなことに全く気がつかなかった。
 団員たちは朝鮮人と間違えた私を尾行はしたが、それ以上す すんで近づこうとはしなかった。それは、当時の噂では朝鮮人は爆弾やビストルを持っているといわれていたので、団員もそれを警戒して近づかなかったのである。
 私はやがて根先坂を下って大木にはいった。この辺は当時、堤防の道で桜並木になっていたが、その道もところどころ地割がしていた。
 また、いまの吉春食堂の前を西に向う道も、当時は堤防のつづきでそのまま大木の渡船場まで行くことができた。

私は日本人!証人現われる

 私が渡船場まで来ると、あいにく舟は向岸にいたので、しばらく舟番小屋の前で待つことにした。私を尾行した団員もともに大木の渡船場まで来たが、まだ警戒しているのか近寄ろうとはせず、ただ様子をうかがうだけであった。
 やがて、向岸にいた舟は何人かの客を乗せて東大木側に着い た。その客のうちに西大木の新島兼次爺さんがいて、私の姿を見かけるや、舟の中から「高梨よく無事だったな」と声をかけた。
 それまで私の様子をうかがっていた団員は、兼次爺さんが声をかけたのを見て、朝鮮人でないということが判り、そのまま引返した。
 以上の話しはそれから四~五日経ったころはじめて村の人から聞かされたもので、それまで私は全く知らなかったのである。

間違って殺され、 流された四国人

 話しは変るが、西大木のさきは利根川を渡ると千葉県東葛飾郡福田村(現、野田市)になるが、その付近で朝鮮人に間違えられた四国(高知県人と記憶?)の行商人九人が、自警団のために殺され、死体を利根川に投げこんだという事件があった。九月五~六日のことである。
 この事件はのちに刑事事件として立件され、加害者の自警団員は起訴され、裁判の結果は(*)いずれも執行猶予つきの懲役刑に処せられた。
 私も、もし兼次爺さんに声をかけられなかったなら、あるいは殺されて鬼怒川へ放りこまれたかも知れない。

=言葉の解説=
不逞鮮人 = 当時の慣用語で公式に用いた
戒厳令 = 天皇の大権事項に属し、旧憲法では緊急の場合、議会の協賛を経ず、発することができる。



*10月23日の投稿のように、「いずれも執行猶予つき」は誤りで、控訴審判決で執行猶予の1名を除き7名は上告。大審院の判決も実刑で、千葉刑務所に収監された。また、「高知県人?」という記憶も「香川県人」の誤りであった。
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