冊子『福田村事件・Ⅱ』その2 「福田村事件」とは/年表

 『別冊スティグマ第15号』(2003年3月20日発行)
編集:『別冊スティグマ』編集委員会
発行:社団法人千葉県人権啓発センター

『福田村事件・Ⅱ―80年を経て高まる関心』その2

「福田村事件」とは
別冊スティグマ編集部

■関東大震災と福田村事件

 一九二三(大正一二)年九月一日、関東地方南部を中心に大地震が発生しました。いわゆる関東大震災です。東京、神奈川、千葉等関東地方各地で、地震による火災も加わり大きな被害が出ました。なかでも東京は、三日未明まで燃え続き、全市の三分の二が消失、横浜では全市街がほとんど消滅ないし全半壊し、この大震災による被害は、死者・行方不明者一四万三〇〇〇人、負傷者一〇万四○○○人、罹災者数約三四〇万人といわれています。

 このように、関東大震災は日本の歴史上きわめて特筆すべき大災害(天災)でありました。

 同時にこの大災害時に、日本の歴史上忘れてはならない六六〇〇人以上といわれる朝鮮人、七〇〇人以上といわれる中国人に対する大虐殺と、日本人社会主義者等への殺害事件がありました。さらに震災時の混乱のなか日本人も殺害されるという事件も各地で多発しました。事実無根の流言蜚語を信じて組織された自警団の民衆や、軍隊、警察が言語に絶する大量殺戮行為を行ったという歴史的事実は、まさに人災でありました。

 この大震災と、流言蜚語の生み出した社会不安のなか、地震発生から五日後の九月六日に、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)の、利根川河畔にあった三ツ堀の渡し付近で、大震災のために組織され、警戒にあたっていた福田村、田中村(現・柏市)の自警団に、香川県三豊郡出身の売薬行商団一行一五人が、「不審者」として疑われ襲われました。そして一行のうち幼児、女性を含む九名が殺害され、死体は利根川に流されてしまうという大惨劇となりました。

 事件の発生地が旧福田村であったことから、「福田村事件」といわれています。

■被差別部落と行商

 この事件については、長い間真相解明がされず、歴史の闇の中に封印されてきました。事件犠牲者は、香川県三豊郡の被差別部落の出身でした。厳しい部落差別のなか差別に負けず生活を守るために、遠く一○○○キロも離れた関東地方で商売をしていました。三豊郡は香川県水平社が旗あげしたところですが、差別の厳しい地域でした。たとえば「福田村事件」で七人の被害者の出たK部落では、事件の起こる七年前の一九一六(大正五)年に、「相撲大会差別事件」が起きています。部落の青年が飛び入り参加したところ、「汝らが出る場にあらず」と袋だたきにされました。翌日、児童四十数人が抗議の同盟休校に入りました。厳しい差別のため、部落の人たちは地元で安定した仕事につくのは不可能でした。農業で暮らそうとしても香川県は全国一面積が小さな県です。耕地が少ないことから小作料も高く、小作料をめぐって小作争議が多発していました。産業もすくなく仕事もない。部落の人たちは農業をやるにもわずかな農地で立地条件は悪かった。さらに厳しい差別の中で被差別部落の人たちは行商に生活の道を求めていきました。K部落では事件当時二軒を除き、すべて行商だったと言われています。

 行商を選んだのは①比較的資本力がなくても取り組めた、②現金の収入を得るのに有利である、など、生活確保のため厳しい手段であるけれども、積極的な選択でもありました。

 一九三一(昭和六)年の全国部落調査によると、行商が一番多かったのは香川県で、「殊に香川県のごとき各職業中行商に従事するもの最も多く」、「従業戸数 に於ては五割以上の多数に及べり」(『部落産業経済概況』中央融和事業協会)と指摘しています。

 (参考:『福田村事件のはなし』香川県人権研究所刊)*1

■真相解明と追悼の取り組み

 四年前から被害者出身地の、部落解放運動のなかか ら「福田村事件」の真相解明の動きが始まり、現在香川県側で「千葉福田村事件真相調査会」が二〇〇〇年三月に結成され、これを受けて、千葉県側でも同年七月に「福田村事件を心に刻む会」が結成されました。 両団体が力を合わせて、事件の真相解明にあたり成果があがっています。真相解明の中から浮かびあがってきたもので、最大の特徴は差別の問題、構造です。朝鮮人蔑視など他民族にたいする差別、部落差別、行商人への職業差別、よそもの(排他的)への差別等が、 複合的に重なって起きた事件であることが、明らかになってきました。 

 この真相解明と併せて、事件犠牲者に対する謝罪の意味も含めて、追悼を形にしようとの運動が始まりま した。具体的には事件発生八〇年後の二〇〇三年に『追悼碑』を建立する取り組みを進めています。二度とこのようなことが起きないよう、人権教材の記念碑とすること、事件被害者を多くの人々が追悼していくため に、『追悼碑』を建立するべく香川、千葉双方にて取り組んでおります。

 八〇年前のことが、今日にも大きな人権課題として、 生きた人権教材としてこの「福田村事件」は存在して いることをご理解いただきたいと思います。

*1「香川県人権研究所」は「香川人権研究所」の誤植です。



■福田村事件関係概略史

1923(大正12)年
9月1日 午前11時58分 関東大地震起こる (誤記訂正48分→58分/20230504保存会)
9月2~4日 東京、神奈川、埼玉、千葉に戒厳令
9月2日 関東一円で朝鮮人虐殺が始まる
9月6日 福田・田中村事件起こる 香川県人売薬行商人一行15名のうち9名虐殺される
11月8日 第一審公判始まる 被疑者 8名(福田、田中村各4名)
1924(大正13)年
8月3日 上告審判決 7名確定(福田村4名、田中村3名)
1926(大正15・昭和元)年
12月25日 大正天皇死去 昭和へ改元
1927(昭和2)年
2月7日 大正天皇大葬 大赦3万人余、特赦1400人余、減刑4万人余、その他含め計18万人余 福田村事件第二審より2年5ヶ月後 で全員恩赦に該当
1954(昭和29)年
9月 柏町、小金町、土村、田中村が合併し「東葛市」市制施行
11月 東葛市を柏市に名称変更
1957(昭和32)年
4月 福田村、野田市に合併
1979(昭和54年)
9月1日 関東大震災と朝鮮人[資料編第2集] 千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼調査実行委員会・編集発行。朝日新聞に報道
9月19日 朝日新聞報道を読み「日本人も殺された。伯父、伯母、その子どもも」と連絡のあった遺族と実行委員会の人が、事件現地・三ツ掘を訪ねる
1983(昭58)年
8月1日 石井雍大氏(香川歴教協)へ平形千恵子氏(千葉歴教協)より連絡(情報)あり
8月7日 石井、平形、大竹米子各氏三ツ堀へ、圓福寺住職と面談」 
9月1日 『いわれなく殺された人びと』千葉県における追悼・調査実行委員会編発行(1979年9月の遺族現地訪問等福田村事件について記述)
【この間石井氏香川県内において聞き取り調査を続ける】
1986(昭和61)年
7月20日 石井氏「草稿」二号 「関東大震災・もう一つの悲劇」発表
9月5日 朝日新聞・上林記者(千葉・市川支局)香川訪問 石井氏と共に関係者取材
10月10日 石井氏、上林記者三ツ堀訪問取材
10月14日 「虐殺の現場 私はいた」行商の途中弟らが・・・ 朝日新聞・千葉版に報道
1987(昭和62)年
8月8日 石井氏、千葉歴教協有志三ツ掘へ、圓福寺住職と供養について相談 [戒名をつけ過去帳に記載し永代供養をすることを約束]
1988(昭和63)年
3月3日 遺族・高畠氏と、十鳥氏(豊中町教委) 三ツ掘現地、野田市役所・同教委訪問。事件真相解明の協力要請
1989(昭和64・平成元)年
2月20日 石井氏 香川高同研2号 「いわれなく殺さ
れた人びと」発表(後 単行本 『青い目
の人形』に所集) 
【この間、香川県三豊郡内を中心に事件の見直し、真相調査への活動始まり、調査会設立に向け準備を進める】
1999(平成11)年
1115~17日 香川県調査団(遺族、部落解放同盟、行政、研究者等)の名三ッ堀現地、圓福寺供養の後、千葉県側関係者、野田市役所、 同教委と交流集会
2000(平成12)年
2月2日 千葉県人権啓発センター冬季講座「福田村事件ついて」。70名参加 千葉で初めての取り組み
3月20日 香川県『千葉福田村事件真相調査会』設立。90名参加。新聞各紙報道
【この間千葉県でも心に刻む会設立に向け準備を進める】
5月1日 解放新聞全国版に「福田村事件―9人の部落民を殺害」と報道
6月7日 香川・真相調査会 野田市役所、柏市役所訪問
7月2日 千葉県『福田村事件を心に刻む会』設立。50名参加。香川・真相調査会、東日本部落解放研究所参加。元福田村村長・新村勝雄氏 「個人的立場であるが、過去の悲しい出来事に深くお詫びしたい」と言明 四国新聞社取材、7月10日報道
7月7〜8日 千葉・刻む会役員香川現地慰霊訪問。新聞各紙報道
9月2日 千葉福田村事件真相調査第一回報告会開催(観音寺市) 1000名参加。千葉・刻む 会、東日本部落解放研究所参加。新聞各紙、NHK香川報道
9月6日 千葉・刻む会 「福田村事件犠牲者追悼式」を三ツ掘現地及び圓福寺で開催。式後交流集会開催 。香川・真相調査会、東日本部落解放研究所参加。9月6、7の両日、犠牲者追悼式等が朝日新聞ちば首都圏版にて報道
【この間、香川県側、千葉県側において情報、資料の収集を継続して行う】
【この間、解放新聞香川版・よく分かる福田村事件を連載。香川人権研究所喜岡氏】
10月8日 HUNETヒューネット Vol.1に「特集2 千葉・福田村事件」として掲載。橋本 要氏取材継続中
1月8~9日 千葉・刻む会、千葉県人権啓発センター役員が香川現地訪問。 香川人権研究 所交流訪問。事件現地聞き取り調査
12月18日 千葉・刻む会 柏市役所訪問
12月25日 東日本部落解放研究所『明日を拓く』 第36号 シリーズ『訪ねる』に香川・真相調査会 中嶋忠勇会長インタビュー掲載
2001(平成13)年
2月8日 香川・真相調査会、千葉・刻む会柏市役所訪問
3月1日 『歴史の闇にいま光が当たる―福田村事件の真相 第一集』香川・千葉福田村真相調査会発行。香川・朝日、毎日、読売、四国、 山陽各紙で紹介。千葉・読売、千葉日報、東京各紙で紹介
3月23日 香川調査団(遺族、真相調査会、部落解放同盟、香川人権研究所三豊郡1市9町行政) 16名、千葉・刻む会6名柏市役所調査訪問、「主に柏市史関係について」。同日、事件現場慰靈
3月24日 同調査団 埼玉県視察研修 「主に関東大震災朝鮮人虐殺慰霊碑について」
 4月6日 東日本部落解放研究所連続講座『福田村事件とはなにか』千葉県人権啓発センター報告。 40名参加。香川・真相調査会、千葉・刻む会が参加
5月16日 香川県木田郡三木町同和教育研究協議会フィールドワーク12名。読売新聞柏支局市原記者取材
6月9日 差別とたたかう女性のつどい2001 (解放同盟千葉県連女性部)『福田村事件につ いて』、千葉・刻む会、記念講演と分散会参加
6月12日 [市民団体追悼碑建立へ]と、読売新聞・東飾版に報道
6月22日 香川、千葉福田村事件真相調査会2001年度総会|
6月24日 千葉、福田村事件を心に刻む会2001年度総会
6月25日 八千代市、船橋市の朝鮮人犠牲者の慰霊碑など調査
7月4日 部落解放第3回東日本研究集会(横浜市)『福田村事件について』全体集会特別報告 香川・真相調査会 中嶋会長、第1分科会 歴史と文化『福田村事件とはなにか』千葉県人権啓発センター報告
8月2日 追悼碑建立について打ち合わせ 野田市圓福寺
8月17日 野田市議会連合クラブ「福田村事件学習会」説明
8月25日 荒川ー墨田ー山谷から「ビッグレスキュー(=治安訓練)」を考える8・5集会~~「福田村事件」報告
8月27日 読売新聞柏支局取材
8月27日 朝日新聞大阪本社社会部 平栗記者旧福田村現地取材
9月1日 千葉福田村事件真相調査第二回報告会開催(観音寺市)1000名参加。千葉・刻む 会参加香川、新聞各紙報道 解放出版社取材
9月2日 香川・真相調査会、千葉・刻む会合同役員会(豊中町)追悼碑建立打ち合わせ
9月3日 千葉・刻む会、香川県三豊郡関係行政訪問。観音寺市、山本町、仁尾町、豊中町、高瀬町各首長と面会、千葉の取り組みを説明
9月3日 朝日新聞大阪本社 夕刊 『関東大震災の悲劇、刻む』―千葉の自警団、香川の行商団 を惨殺―加害・被害超え追悼碑建立へと報道
9月6日 千葉・刻む会、香川・真相調査会合同で「第二回福田村事件犠牲者追悼式」開催。事件 現地 野田市圓福寺。40名参加式後交流会開催
9月7日  第二回福田村事件犠牲者追悼式」朝日新聞ちば首都圏版に報道
9月7日 香川・真相調査会 野田市、柏市行政訪問
9月25日 東日本部落解放研究所『明日を拓く』第4号シリーズ 「訪ねる」千葉・刻む会 濱田

編集後記(一部)

●行政が福田村事件に取り組まないことの言い訳に「加害者の遺族が明らかになった時、その人が不快な思いをしたり周囲に攻められたりしたらいけない」ということがあります。一見もっともらしい意見ですが、そのことが「人権感覚の鈍さ」を物語っているのです。
 私たちが取り組んでいる「人権教育のための国連十年」の重点項目の中に、刑を終えて出所した人の人権の確立があります。何らかの犯罪行為をした人であっても、所定の裁判を経て刑に服せば罪を償ったわけで、その後、その罪科について差別的な処遇をするのは人権侵害である。一方で、犯罪というのはその時代の「闇」の部分を明らかにするものであるから、その犯罪についてきちんとした評価と分析をすることが同様の犯罪を防ぐ手だてになる。この二つのバランスを欠いているのが日本の現状です。
 福田村事件はなぜ起こったのかを追求する過程で、加害者の係累に不利益が生じたら、それは現在の人権侵害事件として取り扱わなければならないわけです。それを「寝た子を起こすな」といわれる。部落差別の隠蔽と同じ構図が、行政の福田村事件への対応にも見られます。
(もりすぐる)

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