『柏市史 近代編』 抜粋 その3 福田村・田中村の事件
『柏市史 近代編』 抜粋 その3 福田村・田中村の事件
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福田村・田中村の事件
流言に惑わされた民衆から襲撃を受けるようになった朝鮮人・中国人保護のため、戒厳令司令部は習志野の兵舎に一時的に収容することを決め、東京・千葉の各地に散在する人々を移送し始める。土村にも北総鉄道建設の労働者として朝鮮人がいた。九月六日、村長は各区長・在郷軍人分会長・同班長・青年団各分団長宛て、「村本在留の朝鮮人の取締に関しては地方民の安定を計らしむ為め、目下千葉町に開設中なる収容所へ両三日中に軍隊引率の下に収容可相成旨昨夜松戸警察署よりの電話通牒に接し」との報告を行い、八日には習志野収容所への移送を完了し、同日「警察官署の委託と本村自衛との方面に於て昼夜眠食を忘れて偉大なる功績を挙げられ、為めに一昨夜以来平穏の域に達し村民の安堵を得せしめたるは各位の指導の宜しきと部下一同の協力に外ならさることゝ確信」と「朝鮮人に関する件」という感謝を表する文書を村内関係者宛てに提出した(酒井根区有文書一七三)。
しかし、習志野の兵営に収容された朝鮮人・中国人の生命が保証された訳ではなかった。何十人もの人々が収容所から軍隊の手によって連れ出され、付近の住民によって試し切りに等しい方法で殺されているのである。
当地域において悲劇が生じたのは九月六日のことである。その事情は次の通りである。
福田村ニテモ十五人ノ鮮人入リ来ルヲ認メ種々調査シ検見スルニ言語不明ニテ野田分署ヨリ来リタル時巳ニ八人ヲ殺害シタルニ依リ其八人の福田村ノ人ニテ殺シタリ、他ノ一人ハ利根川ヲ流レテ茨城県下ノ対岸ニ渉リタルヲ、 田中村ノ人船ニ乗リ福田村三堀下ヨリ出発シ其一人ヲシ殺シタルモノ
自警団を組織して警戒していた福田村を、男女一五人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する。警官がやってきたときには八人がすでに殺害され、一人は利根川に飛び込んで逃れようとしたが、騒ぎを聞き付けた田中村の自警団が船で追い掛け、その一人も殺害したというのである。残された人々から事情を聴取すると、彼らは香川県人の売薬商人であることがはっきりした。言葉の行き違いもあったのだろうが、異常な事態に興奮し、ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない。
各地でこうした事が発生し、直接手を下した人々は逮捕され、公判に付された。この事件にかかわって田中村の四人、福田村の四人、計八人が逮捕された。 田中村は同年一〇月二日に村会議員・各区長・各団体長を招集し、この事件への対処方法を協議する。会議においては、隣村まで追い掛けていったことを問題にする意見も強く、弁護料として出すことはできないが、「役場に於てか又は公共団体の如き団長より命令の元に行動したな らば止むを得ざる故」と、小金町の場合を参照して四人に対し三五〇円の見舞い金(*1)を戸数割りによって徴収し、支給することとなった(平川善仁家文書、『萬朝報』大正一三年五月一日/*2)。
九月六日、市域にも戒厳令が施行される。一〇日からは土村役場に習志野騎兵第一三聯隊の機関銃隊が常駐することになり、自警団員の武器や凶器の所持、通行人に対する誰何(すいか)や検問は禁止され、治安維持の役割は軍隊と警察に限定されることになった。
治安状態が落ち着きを取り戻しつつあった九日付けの、千葉県警備隊司令部の「主義者及不逞鮮人に就て」というビラは、警察や軍隊、自警団による当初のこれらの人々に対する弾圧について次のように述べている。朝鮮人が騒乱を計画しているということは「前報の通り依然事実ではない」と否定しつつも、「唯人心の動揺を好機とし主義者及不逞の鮮人が巧に鮮人を煽動使嚇するので、処々に放火掠奪等の兇行も演せられ自讐に任する人々 と衝突し終に流血の不幸を見たる処もあり」と、朝鮮人に対する一方的な襲撃や社会主義者に対する弾圧を「衝突」と表現しようとしていた(三上信次郎家文書一九)。
市域の人々は落ち着きを取り戻してくると、東京の罹災民に対する衣服類の援助や避難して来た人々の救助に力を注いだ。家屋の倒壊・焼失によって、 酒井根地区に避難してきた人の数は、九月二一日四〇人に達し、うち一人は土村に本籍を持つ人であるという報告がなされている(酒井根区有文書一七三)。
*2 「萬朝報」大正一三年五月一日(一部書き起こし)
自警団騒では最も重い懲役八年
田中村事件控訴判決
(以下、省略)
*1 弁護料と見舞い金に関連して
「東京日日新聞」大正十三年九月四日(一部書き起こし)
昨秋 震災の生んだ悲劇
鮮人(ママ)と見誤った邦人殺し判決
三日刑務所に収監
昨年の震災当時鮮人(ママ)襲来説に脅やかされに自警団の組織を見て殺傷の惨劇が随所に行われたが、東葛飾郡田中村字(字/姓名/年齢)外六名が日本人を鮮人(ママ)と誤り誤殺した事件は既に千葉地方裁判所で懲役十五年ないし七~八年に処せられたるに復せず上告したがその結果この程控訴院(ママ、大審院の誤り)に於て先のとおり判決言い渡しがあり、執行を指揮され三日いずれも千葉刑務所に収監された。ちなみに入監に際し福田村及び田中村では一人前八百円くらいの餞別を贈ったと・・・・・・(以下、省略)
※記事によれば、収監されたのは24歳から54歳でした。
各級の判決期日は次のとおり。
1924年(大正13)4月30日 東京控訴院判決
1924年(大正13)8月29日 大審院判決
なお、1927年2月7日の大正天皇大葬(大赦,減刑および復権ならびに特別基準恩赦)により釈放されています。
※また、こうした期日は調査を進めた段階で新規の投稿でお伝えします。あわせてこの投稿(ページ)も更新したいと考えています。
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