『柏市史 近代編』 抜粋 その2 戒厳令の布告
『柏市史 近代編』 抜粋 その2
p.421
戒厳令の布告
第一次大戦後の社会運動の高揚に対し、内務省は社会主義者などを要視察人とし、日頃から特別な監視下に置いていた。大地震によって交通通信が途絶し、社会機能が麻痺する中でこれ らの「主義者」が虐げられている人々を扇動して暴動を起こすことを恐れたのである。都市においても農村にお いても定住する人々は、地縁的な繋がりの下で生活し、また日露戦争後に形成された青年団や在郷軍人会、警察の下部組織的な役割を持つ保安組合などに組織化されており、そう心配することはなかった。主義者や陰謀家の扇動の対象として恐れられたのは、工事現場に飯場などを形成して移動する労働者や、各地を移動する商人などの人々だった。さらに、大戦後関東地方にも急速に増えた朝鮮人労働者は、飯場などで働き民族的な差別に苦しめられていた。また民衆の中においても、日本の植民地になった朝鮮人や、日清戦争の敗戦以後、列強に蹂躙されている中国人を差別する意識も強くなっていた。
警察と軍は地震発生直後から秩序維持の準備を始め、千葉県習志野に本部を置く騎兵隊に帝都の治安維持のために出動することが命じられた。 出所の定かでない流言蜚語が二日の朝から飛び交い始めた。「朝鮮人が暴動 を起こした」という流言の伝播を追った研究によれば、権力中の周辺地域から始まっているともいわれて いる。このような事態に対処するため、戒厳令が九月二日に東京市、三日には東京と神奈川県に公布され、軍が治安維持に責任を持つ体制が築かれていく。
こうした噂は市域にも直ちに伝わってきた。 炎上する東京の煙が漂い、多くの人々が水戸街道を通って避難してきた。 東京・横浜近辺のどの地域においても、治安維持のために在郷軍人会や青年団、さらには大字や小字毎に組織されていた多くの人々が警戒のために動員された。松戸署管内においては丁度この頃、大字を単位とする保安組合の組織化が進みつつあった。 それは「日常起り易キ各種ノ損害ニ対シ隣保相団結シ関係官公署団体組合等連絡ヲ保チ、之ヲ未然防止シ組合内ノ安全ヲ期スル」ことを目的にし、安全当番を決め、災害防止・ 救護、犯罪予防、悪習弊風の芟除など、「松戸警察署管内保安組合又ハ土村保安組合ヨリ指示セラレル事項」を行うとされている(酒井根区有文書ニ七)。この保安組合規約の施行日が大震災の当日であった。 保安組合という名称で活動した形跡は見られないが、在郷軍人会・青年団は、村境に立ち番を立てて不審人物往来を監視し、余震が続中、 不安をな夜を送っている村の中を巡回した。
写真は朝日新聞〝ことばマガジン〟の「関東大震災」の記事一覧から
http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/keyword/index2.html%3Ftag=0009.html
*1 保安組合
「保安組合」に関する問いに対して、千葉県立中央図書館の調べで次のような回答を行っていました。
■質問:1920-24年にかけて、千葉県警察部と各警察署は、青年団・在郷軍人会・消防組などの既存組織をベースに、自警団や保安組合、尚武会、青年義会等々の名目で、民衆の組織化を進めました。千葉県立図書館所蔵資料に、これらの動き(組織)に直接言及している文書や新聞記事、研究論文はありますか。
■回答:出典にあげられていた『近代日本の警察と地域社会』p145-146にあった警察署が所在していた自治体の市町村史を調査したところ以下のような記述がありました。
『成東町史 通史編』(成東町 1981)p977「消防組織の充実」に「当時の消防組は、警察の指揮監督下にあり活動内容としては、防犯、火災警備や衛生、風紀の取り締りなどである」とあり。
『佐原町誌』(佐原町 1931)p349-350 保安組合の項で7行の記述。
『大多喜町史』(大多喜町 1991)p1153「警察と村」に「大正期に入ると当地域では大正9年(1920年)に警察業務に協力する組織として「保安組合」ができた。」と5行の記述。その中で西畑村松尾保安組合の「保安組合規約」(松尾区有文書)が紹介されています。
その他『市原市史』『銚子市史』『船橋市史』には記述はありませんでした。
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000074935
愛媛県生涯学習センターのデータベース『えひめの記憶』で閲覧できる『伊予市誌』には次のような記述があります。
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/35/view/9906
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