1949「関東大震災の治安回顧」抜粋(千葉自警団)その2

『関東大震災の治安回顧』75頁からの文字起こしです。
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第四章 自警團騷擾の勃發
第二節 各県下の騒擾状況

第一款 千葉県下の騒擾状況

 千葉に於ける自警団騒擾は、既述の如く件数にして総数二十一件に達し、九月三日以降同月六日迄の前後四日間に亘り、同県下十六個町村の治安を擾乱したが、先づ之等騒擾発生の場所及び時期を表示し、大で各騒擾の状況を概説すれば、次の如くであった。

  東葛飾郡浦安町  九月三日、四日
  同   馬橋村  九月三日
  同   葛飾村  九月四日
  同   船橋町  九月三日、四日
  同   我孫子町 九月三日、四日
  同   中山村  九月四日、五日
  同   南行德村 九月四日、五日
  同   小金町  九月五日
  同   福田村  九月六日
  香取郡 滑河町  九月四日
  同   神崎町  九月四日
  同   佐原町  九月四日、五日
  君津郡木更津町  九月四日、五日
  千葉郡検見川町  九月五日
  印旛郡成田町   九月四日
  海上郡三川村   九月四日

 而して右各町村に於ける騒擾は、次に述べるが如く多くは単発であったが、浦安町に於ては三件、船橋町、中山村、木更津町に於ては各二件の併発を見る状況であった。

(76頁の地図)


第一、東葛飾郡浦安町に於ける騒擾

一、九月二日、鮮人二名が其の雇主たる内地人一名と共に、震災の厄を逃れて浦安町堀江所在の田辺某方に避難して来た。然るに同町内を自警中であつた数百名の群衆は、之等鮮人二名を不逞鮮人と誤認し、翌三日午後十一時頃に至るや、竹槍、棍棒等を携へて田辺方に押寄せ、忽ち同家を包囲した上、右鮮人二名の引渡を迫り、之を制止せんとした駐在巡査等に対して危害を加へるが如き険悪な気勢を示して喧噪し、途に該鮮人二名を同家から引出して縛り上げ、同町堀江地先なる江戸川堤防水番小屋附近に連れて行き、日本刀其の他の兇器を振って右鮮人二名を殺害し、騒擾を惹起した。

二、九月三日午後、浦安町当代島所在の金橋某方の雇人である内地人一名が同町猫実に来たところ、折柄警戒中の数十名の群衆は同人を見附けて鮮人と疑ひ直に取押へて縛り上げ、取調の爲めとして同町役場へ連行したが、其の際同役場前に蝟集して居た百名の群衆は、同人を不逞鮮人なりと妄断し、「殺して仕舞へ」と怒号喧噪した末同日午後五時頃同役場前に於て、棍棒等を以て同人を殿打殺害し、騒擾に及んだ。

三、九月四日午前十一時頃、内地人職工及び九州生れの内地人各一名が、東京に於ける主家罹災の爲め、米買入の目的で浦安町に来た。処が同町警戒中の群衆数百名は右内地人二名を不逞鮮人と疑って捕縛して仕舞ったが、当時同町々役場では斬かる疑問の人物取調に従事して居た爲め、群衆は之等二名の内地人を同役場に拉致するに至った。然るに同町 助 役 は先づ九州生れの内地人を取調べた上、同人が偶々血痕の附着した日本刀を携帯して居た點等を取上げて同人を不逞鮮人なりと誤断し、自ら新規の縄を取出して同人を縛り直し、更に同行の内地人職工をも其の同類なりと疑ひ、昻奮喧囂する群衆に向ひ、之等二名は鮮人なりと放言し、之を殺する差支へなしと言ひ乍ら引渡して仕舞った。斯くて之を待受けて居た群衆は、愈々右二名を不逞鮮人と妄信し、直に同町堀江地先の江戸川堤防水番小屋附近に連れ出し、鳶口、棍棒、日本刀等を振って殺害し、其の死体を同所の江戸川に投棄して騒擾した。


第二、東葛飾郡馬橋村に於ける騒擾

九月三日午後四時頃、馬橋村馬橋所在の馬橋駅に不逞鮮人が汽車で到着すべしとの情報が傅へられた爲め、折柄警戒中であつた数百名の自警団群衆は、右不逞鮮人を取押へんと直に同駅に殺到し、忽ち列車に乗込んで居た鮮人男子六名を取押へて縛り上げた。斯くて群衆は口々に「殺して仕舞へ」「逃がすな」と怒号し乍ら、内二名の鮮人は同から約二丁離れた同村萬満寺境内に連行し、一名の鮮人は同駅構内で殴打傷害を加へた上、是亦同寺境内に同行し、他の鮮人三名は同駅から約一丁隔てた俗に鞍屋と称する同村平野某方前に拉致し、夫れ夫れ数百名群衆は右両所に分れ、「遣つけて仕舞へ」と喧噪を極め、鳶口、刀剣、槍、杉丸太、銃、仕込杖、棒等を以て之等鮮人を殺傷し、寺境内に於て前記三名を、鞍屋前に於て前記三名の内二名を殺害して騒擾を爲した。


第三、葛飾郡葛飾村に於ける騒擾

九月四日午前九時頃東京市本所区柳原町所在の硝子工場職工四名が避難の爲め、葛飾村本郷の道に差掛った。然るに同所を自警中の群衆数十名は、同人等を不逞鮮人と疑って取押へ、之を縛り上げたが、見る間に百余名の群衆が參集して気勢を添へ、「遣って仕舞へ」と怒号し始め、忽ち棍棒等を振って同人等を打して傷害を加へたが、偶々同所を通行中の自警団員一名も之に参加し、日本刀を以て同人等の内一名に附けて重傷を負はせ、騒擾を惹起するに至った。


第四、東葛飾郡船橋町に於ける騒擾

一、九月三日、船橋町に隣接する鎌ヶ谷村の自警団は、予て同村方面に於て北総鉄道工事に従事して居た鮮人土工数十名が今次の震災に乗じ、東京方面の不逞鮮人と気脈を通じて暴虐行爲に出る虞ありと考へた結果、同村粟野所在の右鮮人土工部屋に押寄せて鮮人土工三十八名を監視するに至った。而して翌四日朝となるや、自警団は之等の鮮人土工を警察署又は軍隊に引渡すべく、悉く之を縛り上げた上、同郡塚田村所在の海軍無線電信所附近に連行して同所と交渉の末、更に船橋町所在の船橋警察署に引渡すべく、同日午前四時頃同町九日市避病舎前に同行して来た際、同所を警戒して居た消防組員等数百名の群衆は、之を目撃して不逞鮮人の一団と速断し、忽ちに口々に「朝鮮人を殴って仕舞へ」と怒号し乍ら、鳶口、竹槍、日本刀等を振って鮮人土工中三十七名をして殺害し茲に騒擾を勃殺せしめた。

二、九月四日午前十一時頃、東葛飾郡塚田村の消防組員其の他数百名の自警団群衆は、同村松島等に於て予て北総鉄道工事に従事して居た鮮人土工五十余名が震災に乗じて暴動を起す虞があるものと思ひ、之を捕縛して船橋町所在の船橋警察署に連行して来た。仍て同警察署に於ては、之等鮮人土工を保護監視する目的で、特に同警察署内に収容しやうとしたところ、折柄同警察署前に押寄せて来た群衆は、「鮮人を遣つけて仕舞へ」と絶叫喧囂し鳶口、竹槍、棍棒等を振って之等鮮人土工に暴行を加へ、内約十五名に傷害を負はせたのみならず、内一名をして重傷に因り死亡するに至らしめ、騒擾を惹起した。


第五、東葛飾郡我孫子町に於ける騒擾

九月三日午後三時頃、東葛飾郡富勢村の消防組員数名が鮮人三名を取押へ、我孫子町の警戒本部である同町八坂神境内に拉致して来たので、之を取調べたところ、其の挙動、言語が曖昧であつた爲め、同所に集合して居た数百名の自警団群衆は、之等鮮人を不逞鮮人と妄断して憤激の予、「遣ちまへ」と喧噪し、棒其の他の兇器を振って右鮮人三名を殿打負傷させた。然し群衆は警察官等の制止に依り、一時暴行を中止して右鮮人等を同神社境内に留置したが、同日午後九時頃に及んで該鮮人二名が警戒の隙を窺って逃走した爲め、同夜十一時頃になって之を知った百余名の自警団群衆は非常な不安を感じ始め、寧ろ同所に幾つた鮮人一名を殺害して逃亡の不安を除くに若くはないと考へ、忽ち「遣つて仕舞へ」と喚声を揚げ、棍棒等を以て同人を撲殺して仕舞った。次で其の夜群衆警戒の爲め、徹宵逃走した鮮人二名の捜索に従事し、翌四日午前八時頃内一名を取押へて再び八坂神社境内に同行したが、其の場に居合せた百余名の群衆は、同人の逃走を憤慨し、再度の逃走に因る不安を除かうと欲し、「殺して仕舞へ」と怒号し乍ら、同人を殴打殺害した。更に同日午後二時頃に至り、群衆は遙に他の鮮人一名をも発見して取押へ、前同様之を八坂神社境内に連行するや、前記群衆は同日午後三時頃同人をも撲殺して騒擾を極めた。


第六、葛飾郡中山村に於ける騒擾

一、九月四日夜、東葛飾郡鎌ヶ谷村粟野附近の在郷軍人会員等は、同部落に居住して北総鉄道工事に従事中の鮮人土工十三名を捕へ同村道野辺を経て法典村に送り越した。法典村自警団員等に於ては、之等鮮人土工も一朝有事の際には、不逞の徒と気脈を通じる一味と思ひ、之を此の儘村内に留め置く時は、罹災地同様放火等の危害を受ける虞あり、自衛上彼等を官憲に引渡すに若かすと考へ、直之等鮮人土工を同村丸山から馬込沢、藤原の各部落、隣接の中山村を市川警察分署又は市川鴻之台駐在の軍隊に引渡さうと欲し、自警団員等百数十名の群衆が一団となり、各自武器を携へて右鮮人土工に附添ひ、同日夜十時過頃中山村若宮地先の脇道へ差掛った。此の時該群衆中に、罹災地に於ける不逞鮮人の非人道的行動を憤激する感情が一時に燃上し、何人が主唱するとなく一斉に、「遣つけて仕舞へ」と騒ぎ出し、右群衆中の十数名は忽ち日本刀等を振って之等鮮人土工に斬附け、悉く之を殺害して騒擾を惹起した。

二、次で九月五日午前七時頃、前記法典村馬込沢に於て、附近警戒中の自警団員等が東京市深川区洲崎所在の飴工場職工と自称する鮮人三名を引捕へ同部落の自警団事務所へ連行して来た。処が其処に居合せた自警団員等は、之等の人は東京より遅れて来た不逞鮮人であるから、自衛上官憲に引渡すに若くはないと云ひ出したので、右自警数十名は各自日本刀、竹槍、嶌口等を携へて之を護送し、同村藤原を経て同正午頃中山村若宮地の前夜鮮人が殺害された場所に差掛った。然るに彼等自警団員は多数鮮人の死が道路に横はって居るのを目撃するや、遽かに殺気立ち、「遣つけて仕舞へ」と喧噪し、群衆中の十数名は所携の日本刀其の他の器を以て同行の鮮人三名を斬殺し、再び騒擾をせしめた。


第七、葛飾郡南行徳村に於ける騒擾

九月四日夕刻、南行徳村一軒家と稱する江戸川線汽船発着所から内地人男子三名が上陸して来たのを、警戒中の群衆が不逞鮮人と疑い、同夜右内地人三名を同村相の川水上巡査派出所に連行して同派出所巡査に其の取調を求めた。仍て同巡査は之を取調べた上、孰れも鮮人ではないと認めて保護を加へやうとしたところ、同所に押寄せて居た自警団群衆は之を不当とし、「不遜鮮人に同情する巡査から先づ殺して仕舞へ」と怒号し乍ら、或は同派出所内に投石し、或は其の扉を叩いて喧噪を極め、折柄出勤した騎兵軍曹等に右三名の身柄引渡を強要した爲め、同巡査は之に応じて右三名の身柄を同軍曹に引渡した。斯くて同軍曹が部下の兵卒数名と共に右三名の内地人を連れ出さうとするや、群衆は之に追従して翌五日午前二時頃同村派心寺門内に於て内一名を、次で同門前から八幡町方面に向って七、八間進んだ同村香取地内の道に於て他の二名を失れも竹槍棍棒、刀剣等を用いて殺害し、之等の死体は江戸川に投棄して騒擾した。


第八、東葛飾郡小金町に於ける騒擾

九月四日午後十一時頃、小金町字大谷口に於て、自警団員が刀剣、竹槍を携帯した怪しい男子四名を不逞鮮人と誤認して取押へ、同町駐在巡査に通報した。近くて同巡査が同町停車場に赴いて右四名を取調べた結果、孰れる内地人であり、同郡流山町所在の陸軍艦理部派出所勤務のものであることが判明し、何等不穏な行動に出る虞がないことを認めたので、直に之を釈放せんとした。然るに群衆は之を肯ぜず、漸次不穏の形勢を示した爲め、同巡査は先づ右四名を同町巡査駐在所に同行し、松戸警察署にして其の措置を問合せ、翌五日午前一時頃再度之を釈放せんとした。處が竹槍、刀剣等を携へて同駐在所を包囲して居た同町自警団員等数百名の群衆は、右四名を飽く迄不鮮人と妄信し、同巡査に向って「右四名を縛して松戸警察署に同行せよ、若し釈放するに於ては、同巡査を殺害すべし」と威迫して喧噪し、或る者は右駐在所入口に於て実弾装の拳銃を同巡査に擬し「貴様は社会主義者の親方だ、今夜は生かして置かないぞ、此の者を放すと、貴様を殺すぞ」と叱呼して脅迫し、同巡査をして其の意に反して右四名を縛せしめ、騒擾に及んだ。


第九、東葛飾郡福田村に於ける騒擾

九月六日午前十時頃、香川県人である高松市帝国病難救薬院の売薬行商団一行が、薬其の他の荷物を車に積み、東葛飾郡野田町方面から茨城方面に赴くべく、福田村三つ堀に差掛り、同所香取神社前で休憩した。然るに当時附近に於て鮮人の侵入するものあるべしと警戒に従事して居た自警団員が之を見附け、鮮人の疑があると稱して右売薬行商団員を種々審訊して荷物を検査したところ、四国弁にて言語不可解な點等があった爲め、右自警団は全く鮮人なりと誤信し、警鐘を乱打して急を村内に告げ、又は隣村に應援を求めるに至った。其の結果、数百名の村民は忽ち武器を手にして同神社前に殺到し、前記売薬行商団を包囲し、「朝鮮人を打殺せ」と喧囂し、該行商団員等が百方言葉を蓋して「日本人である」と辯解したに拘らず、鮮人に対する恐怖と憎悪の念に駆られて平静を失った群衆は、最早辯解に耳を傾ける遑もなく、或は荒縄で縛り上げ、或は鳶口、棍棒を振って殴打暴行し、遂には「利根川に投込んで仕舞へ」と怒号し、香取神社から北方約二丁の距離にある三つ堀渡船場に連れて行き、行商団員九名を利根川の水中に投込み、内八名を溺死せしめたが、他の一名が泳いて利根川を横切り岸に逃れんとするや、群衆中より船で追跡するものが現れ、岸で之を斬殺し、残った五名の行商団員は急に接して駆附けた巡査等の爲め、辛くも救助されて死を陥れる等騒擾を極めた。


第十、香取郡滑河町に於ける騒擾

九月四日午前二時頃、予てから滑河町猿山所在の木賃宿幸盛屋に止宿し、飴行商を営んで居た鮮人三名に対して、同町民は彼等も不逞鮮人の一味であらうとの疑念を懐くに至り、之を其の儘右木賃宿に留め置くことを望まなかつた爲め、同町猿山の消防組員十数名は右鮮人三名を同町停車場構内に連行し、一番列車に依り佐原警察署に護送する手配を講ぜんとした。處が佐原町民も不逞鮮人の非行に憤激して人心頗る殺気立つて居た折柄とて、同町に之等鮮人を送って来る時には、如何なる惨事を惹起するやも計り難い形勢であつた爲め、佐原警察署に於ては右発を中止せしめ、巡査部長一名を同日午前十時頃滑河町に派遣し、右鮮人保護の任に当らせた。然るに此の頃から漸次多数の群衆が同町停車場に蝟集し、物情不穏となるに至つた結果、巡査部長は之等鮮人がて印旛酒々井村に暫く滞在したことがあり、同村に知己がある旨申立てたので、彼等鮮人をば酒々井村に送り、成田警察署の保護を受けさせるのが安全と思ひ、同日午前十一時五十分の成田行上り列車に乗込ませる爲め、乗車券を買求めて列車到着ホームに入らうとした。其の際之等鮮人中の一名は殺気立つた群衆の勢に恐怖した余、列車がホームに這入って將に停車せんとした直前、機関車の前面に飛込んで死を遂げて仕舞った。他の鮮人二名は之を見て驚き、同停車場の外に逃走した爲め、右列車の乗客及び群衆は逃さじと追跡し、一名は停車場東北方約十九間離れた和協農業倉庫事務所前で取押へ、他の一名は其處より更に十八間東方の運送店東脇なる桑畑で捕へるや、群衆は棍棒、木刀等を以て各其の場に駈附け、「遣れ遣れ」と叫んで乱打し、右二名の鮮人を撲殺して騒擾を惹起するに至った。


第十一、香取郡神崎町に於ける騒擾

九月四日午後八時頃、神崎町巡査駐在所に於て、同巡査が高知県人男子一名を取調べた末、附近に參集した群衆に向ひ右男子が鮮人に非ざることを説示するや、群衆は異口同音に「遣れ遣れ」と大聲疾呼して不穏の形勢を示し、騒擾に及んだ。


第十二、香取郡佐原町に於ける騒擾

九月三日午後に至つて、佐原町に居住して居る鮮人歯科医が同月二日上京し、同月四日午後には不逞鮮人五十名を引率して来襲するとの風説が行はれ始めた結果、同町民は極度の不安に陥り、人心恟々として居た折柄、東京方面に於ては不逞鮮人が殺害されて居り、此の際鮮人を殺すも差支なしとの浮説が喧伝され、民心頓に殺気を帯ぶるに至った。当時同町には一戸を構へる鮮人として、歯科を業とする者一名、人參行商を業とする者一名あり、右人參行商方には他に鮮人二名同居して居たが、町民等は之等の鮮人も一朝有事の際には不逞鮮人と連絡し、我国家を害するものならんとの疑念を懐くに至り、次第に之等鮮人の身辺が危険に瀕して来た。仍て佐原警察署長は、四日午後一時頃常時前記鮮人歯科医は上京不在であつため、右鮮人行商方に巡査二名を特派して保護警戒に当らせ、若し危険切迫の場合は直に之を検束して同警察署に連行すべく命じたところ、果して同日午後五時頃に及び、鳶口、棍棒等を携へ約百名の群衆が右行商方に殺到し、「遺つけて仕舞へ」と怒号して危険逼迫した爲め、同家に在った巡査一名は、該鮮人行商人及び同居人等三名を伴って、同警察署に向った。其の途次同日午後五時半頃、同町佐原所在の質商幅半の裏手町道に掛るや、二、三百名の群衆は手に鳶口、棍棒等を携へて其の周囲を包囲し、「遣つけて仕舞へ」と喧噪し、忽ち其の附近に於て右鮮人一名を撲殺し、次で他の一名をも殴打して其の場に仆し、残り一名は殴打されたが、辛くも其の場から佐原警察署前へ遁れた。群衆は該鮮人の後から鳶口の柄等を振って殴打し、又は投石しつつ追跡したが、軈て右鮮人及び昏倒した前記鮮人各一名は、巡査に救護され、午後六時頃漸く同警察署に収容された。然るに不逞鮮人の非行に憤激した群衆は、右巡査等の処置を目して故なく不逞鮮人を庇護するものと誤解し、間もなく同警察署前に殺到し、口々に「鮮人を解放しろ」と要求して止まなかった。斯くて同警察署長の他の署員は総出となり、署長自ら同警察署長昇降口石段上に立ち乍ら、群衆の制止、民心の緩和に努めたが、更に其の効がない許りか、群衆は刻々増加して其の数千名に達するに至り遂に悪化し、鮮人解放の要求を容れざる以上は警察官憲も亦不逞鮮人同様我々同胞の敵なりと絶叫し、「警察を焼壊せよ」「署長を殺せ」と喧囂し、之を慰撫せんとした暑長の面前に日本刀、竹槍、嶌口、棍棒の類を突附け今に危害を加へんとするが如き勢を示すに至った。而して或る者は署長の身に迫り、鮮人解放方を強要して群衆に向ひ自己が実見したところなりとして「亀戸から上野迄は全く焼野ヶ原であり、東京市中の惨状は言語に絶するものがある。斯かる状態となったのは、皆鮮人の所爲であるに拘らず、警察官憲が鮮人を保護するのは鮮人同様我々同胞の敵である。警察をして鮮人を放さしめよ、之を殺さねばならぬ」と力説し、又署長に対「一体御前は小さな事許りにこせこせして、斯かる大問題を解決する能力がないのか」と語り、或る者は署長身近に肉迫して鮮人の解放方を要求し、自己が実見したところとして「本日佐倉警察署は留置した鮮人を群衆引渡し、佐倉駅に於て殺させた。其の他成田や東京に於ても、皆同様の取扱をして居るのに、佐原警察署のみ鮮人を群衆に引渡さない理由はない」と演説する等騒擾は同日午後十一時頃迄狙獗を極めた。

他方九月四日午後十時過頃、佐原町川口の汽船宿に於て、船待中の内地人職工一名が精神病者である爲め、言語、動作等が普通人と異るところがあり、多数の群衆から不逞鮮人と誤認されて捕へられた。群衆は日本刀、鳶口、棒等を携へ乍ら、右職工を佐原警察署に拉致すべく同人を擔いで同町佐原四十八番地先の佐原停車場に通する際道筋に差掛つたところ、群衆中から「之を警察に届けると引取られて仕舞ふから、遺つけろ」と叫ぶ者が現れや忽ちは丸太又は竹棒等を振って右職工をし、に之を撲殺して此処にも騒擾を惹起した。

遡って佐原警察署前に於ける前記騒擾に際して、佐原町長は署長を援助し、群衆の慰撫に努めたが、激昂した群衆が容易にしないのを知り、之を退散させる手段として「明日になれば鮮人を解放する」と假唱するところがあった。之が爲め五日午前四時過頃となるや、自団員一名が真実鮮人が解放されるものと思ひ、鳶口を携帯して同警察署昇降口に詰め掛け、警部補に向って大声を発し、「本日午前十時に鮮人を解放するとのことなれど速刻解放せよ」と疾呼した。此声が伝はったか、附近に徘徊して居た数十名の群衆は鳶口、竹槍等を携へて駆附け、忽ち之に共鳴して「遣れ遣れ」と声援し、右警部補を威迫して再び喧噪を極めたが、其の内の一名は此の機に乗じて鮮人解放の要求を貫徹せんとし、携へて居た鳶口を地上に突き附け乍ら、「国賊たる鮮人を解放出来ぬ理由が何度にあるか、返せ返せ」と怒号し、同日正午頃迄同警察署前に蝟集して騒擾した。然るに同日午後九時頃となるや、百名の群衆は三度日本刀、鳶口、竹槍等を手に同警察署前に集合し、強硬に鮮人の解放を要求し、就中同町岩ヶ崎青年団員の一群は、孰れも日本刀を腰に差し、褌を掛け、袴の股立を取り、「遣れ遣れ」と気勢を揚げて騒擾を逞しふした。


第十三、君津郡木更津町に於ける騒擾

一、九月三日、京浜地方に於ける不逞鮮人の風説に憤激した木更津町自警圏は木更津警察署に押寄せ、口々に鮮人の亡状を怨訴し、偶々同警察署に收容中の鮮人を引渡せと要求したが、却て同警察署員から説論を受けるに及び、其の処置の不当を鳴らし乍ら退散したが、其の帰途他の自警団員十数名に対して右の顛末を告げた爲め、之等自警団員に於ては、署員が不逞鮮人を庇護し、不眠不休の警戒に任じて居る我々自警団員を蔑視するものと妄断し、翌四日午後九時頃に至るや、各自日本刀、棍棒、鳶口等を携帯し、数百名の集団となって同警察署に殺到し、之を制止せんとした署員等に向ひ、「鮮人を出せ、叩き殺せ」「此の野郎殺すぞ」「鮮人を引渡せ」「巡査部長の馬鹿野郎出て来い、打殺すぞ」等と怒号喧噪して鮮人の引渡を強要し、警部補一名の頭部を殴打する等、騒擾を恣にした。

二、九月五日午後九時頃、木更津町所在の木更津停車場附近に於て、多数の自警団員が警戒に従事する傍ら、同駅外側に於て数百名の出迎人と共に震災避難客が到着下車するのを待って居たところ、偶々同駅に出張中の木更津警察署巡査が下車客の便宜を計る爲め、突然客をば其の前日警戒及び出迎人の便宜を計って縄張を特設してあった出口から出さず改札口から構外へ出させたので、之を見た自警団員其の他の群衆は、忽ち巡査の措置を不当なりと激昂し、竹槍、日本刀、嶌口等を携へて同駅前なる巡査派出所に殺到し、「出口を違へて出すとは不都合だ」「警官が不都合だ」「警官を遣っけろ」「交番を壊して仕舞へ」と怒号し、折柄同派出所に居合せた巡査二名に対して石、砂利を飛ばして右派出所入口及び窓の硝子戸を損壊したのみならず、右巡査等が署長に随行して右派出所から帰署するのを追跡し、途中警官一行に向つて投石して打撲傷を負せ、遂には警察署内に闖入して「署長が釈明せよ」と怒号喧鬧し、騒擾を惹起した。


第十四、千葉郡検見川町に於ける騒擾

九月五日午後一時頃、検見川町京成電車停留所附近に於て、秋田県人、三重県人、沖縄県人の三名が不逞鮮人の疑ありとして自警団員に捕へられ、同町検見川巡査駐在所に同行されたところ、之が鮮人逮捕と誤伝された爲め、数百名の住民は孰れも鳶口、竹槍、日本刀を携へて右駐在所に押寄せ、同所に捕へられて居た右三名の男子を不逞鮮人と妄信し、「打殺せ」と殺気立つて喧噪を極め、中には竹槍にて右駐在所事務室の窓硝子、壁等を突き破るものがあり、遂に右三名を同駐在所から引出して夫れ夫れ針金にて縛り上げた上、竹棒、鳶口を振って乱打し、眞槍にて突刺し、刀にて斬付け、右三名を悉く殺害するや、直に之等の死骸を右駐在所側なる花見川の橋上に引いて行き河中に投棄する等騷を惹起した。


第十五、印旛郡成田町に於ける騒擾

九月四日午前十時頃、成田町成田停車場構内に充満して居た避難民及び同町民等の中へ、二名の内地人男子が列車から降りて来た。然るに群衆中の何人か之を指して「鮮人だ」と叫ぶものがあった。之が発端となつて忽ち同所に居合せた数百名の避難民は口々に「鮮人を殺せ」と叫び出し、右内地人二名を囲んで喧噪を極めた。處が同駅附近に居た自警団員等は之を聞くや、鮮人が来襲したものと誤信し、決死同町の防衛に当らんと手に手に棍棒、手斧、鳶口を携へて同駅に駆附け、同駅プラットホーム又は鉄道線路上に於て、右内地人二名を乱打して殺害し、騒擾をせしめた。


第十六、海上郡三川村にかける騒擾

九月四日午後四時頃、三川村自警団は内地人帽子直し一名が同村酒小売店に居たのを不逞鮮人と誤認して捕へ、之を同村巡査駐在所へ連行して同所の橡側に縛って置いた。然るに右内地人は同村民の爲め斯く恥辱を加へられたのを深く憤り、「自分は東京市深川区森下町の帽子直しである。鮮人ではない。警察署の取調を受け、晴天白日の身になったら必ず三川村に来る」と放言した爲め、同夜同所に集合した自団の他百数十名の群衆は、痛く其の復讐に恐怖を懐き、同人の挙動風体が鮮人と認められるのみならず、假令同人が鮮人ではないとしても、此の際寧ろ同人を殺害して村民一同の後難を除くに若かずとなし、同日午後十一時過頃多数を以て同人に迫り、金剛杖、嶌口、硝子瓶を振って同人を乱打し、或は槍にて突刺し、同人が右駐在所の橡側から座敷内に逃込むや、庭先に引下して槍にて突き、杉丸太にて殴打し、同人を殺害する等騒擾を惹起するに至った。


 


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