『我孫子市史』が問う政府・軍・警察・などの行政責任

 我孫子市では、救護所が設置された八坂神社境内で、9月3日および4日、3人の朝鮮人が自警団によって殺された。2004」年発行の『我孫子市史』では、この記録を『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』に求めたが、1980年発行の『柏市史年表編』の707頁には9・3「根戸消防組員が朝鮮人三人を取り押さえたのに端を発し、『鮮人惨殺我孫子事件』おこる」「柏ニテハ鮮人三〇人以上を生捕シ、我孫子ニテハ三人ヲ切捨テタリ(花野井・平川新次郎日記)」と複数の資料をもとにして記録している。平川日記では「切捨テ」だが、裁判等では「撲殺」の違いはあるが、福田村事件の2~3日前で、田中村・花野井への情報の届き方を考えれば、我孫子の凶行は福田村・田中村の事件に大きな影響を与えたともいえるのではないか。


 

 我孫子市史は、依る資料は少ないものの、「県や郡当局の指導の下、在郷軍人会、消防団、青年団員等からなる自警団が組織されていった」「自警団による朝鮮人の殺害が、各地で行われた。軍隊、警察官などによるものも含めると、殺された朝鮮人は六〇〇〇人余ともいわれている」と、国と当時の地方行政機関の責任を認めた記述である。

 『我孫子市史近現代篇』(我孫子市教育委員会/我孫子市史編集委員会近現代部会編/2004年)から関連部分を書き起こしする。


『我孫子市史近現代篇』
第七章 田園の憂鬱 > 第二節 恐慌の村

関東大震災と我孫子事件

 大正一二年九月一日午前一一時五八分、関東東海地方を襲った大地震は、全焼世帯が三八万一〇九〇、半焼五一七。全潰世帯八万三八一九、半潰世帯九万一二三三、流失世帯一三九〇、死者九万一三四四人、行方不明者一万三二七五人、重軽傷者五万二〇七四人。全半焼全半潰流失罹災者の総数は二五四万八〇九二人にも及ぶ大惨事をもたらした。地震発生が昼時と重なったこともあり各地で火災が発生し被害を拡大させた。東京市の被害世帯数は、全焼三〇万九二四、半焼二三九。全潰が四二二二、半潰は六三三六。死者五万八一〇四人、行方不明者一万五五六人、重軽傷者二万六二六八人と発表されている(『千葉県警察史』第一巻)。

 千葉県の被害世帯は、全焼四七八、全潰一万二八九四、半潰六二〇四、流失八四、死者一三七三人、行方不明者四七人、重軽傷者二〇九五人。全半焼全半潰流失罹災者は九万六六二〇人で郡別に見ると安房郡の被害がもっともひどく、君津、市原郡の順であった(同右)。

 東葛飾郡の大正一二年一一月一五日までの被害は表7-21のような状況であった。



 震災当日のことは、増田実が大正一二年九月一日に「雲行き悪しく雲烟頻に往来す。突風怒ち起り驟雨幾度か臻る。正午の頃稀有の大地震あり。以後、強微震幾十回、先づ愕然たるを得ぬ。午後の一時頃、西風の天空宛も東都の空に当りて異様なるばい烟の沖するを見る。然して風にあをられてか、忽ち満天に拡り紙灰の飛来するを視る。何処にか、火災の起れるを知る。一種の恐怖と好奇に駆られて、鉄路の地点に至れは既に集へる人々無数。而して半焼の紙片等を以って見れば慥か東京なる事うたがいもなし。而して夜の光景は、一層凄憶を極む」とその惨状を認めている。

 翌二日、増田は、「強弱震は今日も幾度か起り、薄暮は一頻り連続的なりき。東都の火災は今尚狂盛にして、命から/″\避難する者々、彼等の話を聞けば、流石の大都市も今は火焔に包まれて金没なりと。圧死、焼死の殆んと限りなく、其の惨状実に有史以来なりと。蓋し想象の以外なるべし。聞くからに身の毛もよ立つ程なり」と、情報を知るなかで認めた。

 翌二日頃から罹災者が続々と避難してくるようになった。東京方面、その他から県内の親戚知己等を頼り避難してきた罹災者の数は、九月一三日現在で一一万五四〇七人、もっとも多いときで一五万人にも達したという(『千葉県史」大正・昭和編)。

 我孫子町は、「我孫子町事務報告」が述べているように、避難者救済に町長の下で力を尽くした。

(略)帝都二此ノ大変アリテゴリ避難者、或ハ徒歩二テ、或ハ汽車ニテ運ハレ我孫子駅二下車スルモノ恰モ蛾群ノ如ク、殆ント立錐ノ余地ナク、其ノ雑踏名状スベカラス。而シテ、飢餓二迫ルモノアリ。疲労甚タシクシテ歩行二堪ヒサルモノアリ。或ハ行暮レテ宿ヲ求ムルニモ資ナク、只何ノ為ス所モナクスルモノアリキ。此二於テ鈴木町長ハ、各史員及ビ青年団、処女会員ヲ率ヒ八坂神社境内二救護所ヲ設置シ、普ク飢エタル者ニハ食ヲ与へ、疲労甚タシキ者ニハ寺院ニ収容シテ休養セシ等、昼夜ノ別ナク救護ニ従事スルコト数日ニ及ベリ

 八坂神社境内には救護所が設けられ、男女青年団の協力のもとに罹災者の救護活動がはじまった。

 九月二日、政府は治安維持のためとして東京府下に一部戒厳令を施行した。また震災によって「東京市と外部との通信は完く壮絶し」たため、「震災救護に要する緊急電報」は唯一の通信機関となった東京海軍無線電信所船橋送信所より送られることとなった(『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』)。この船橋送信所から、内務省警保局長は、各地方長官にあて次のような電報を送ったのであった。この電報こそは、地震の恐怖から起こった流言蜚語を「事実」として追認することで各地に自警団を組織せしめ、民衆をして朝鮮人虐殺へと向かわせたものにほかならない。

 東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不足の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし

 増田実も、九月一日の日記に、「噂を聞けば、大都の火災は漸やく今暁鎮火せるも、彼の大半は不逞鮮人の悪辣なる手段に依るものなりと。而して是等不逞鮮人は、厳戒に依りてどし/\と地方に四散せんとするもの多しと。彼等は見当り次第に捕縛し刺殺するも可なるべく、早くも地方消防隊、青年在郷各団体の警備の任に当れり」と、「不逞鮮人暴動」の噂を認めている。ここに罹災者の避難路にあたった千葉、埼玉などの各地では県や郡当局の指導の下、在郷軍人会、消防団、青年団員等からなる自警団が組織されていった。

 こうして流言蜚語、風聞を信じた、あるいは信じこまされた自警団による朝鮮人の殺害が、各地で行われた。軍隊、警察官などによるものも含めると、殺された朝鮮人は六〇〇〇人余ともいわれている。朝鮮人と間違えられて殺された日本人も数多くいる。

 我孫子町でも、八坂神社境内で、三日および四日、三人の朝鮮人が自警団によって殺された(前掲『関東大震災と朝鮮人』)。

 虐殺は、六日に「総理大臣及戒厳司令官は布告を発して市民に武器の携帯を禁し、且公の制裁を俟たず濫りに鮮人に迫害を加ふる不可なる」諭告が出されることで、ようやく沈静化する。

 増田実は、この間のことを六日の日記で不安な心の動きとして述べている。

 今晩、又しも警鐘の乱打あり。昨日の事もあり、又夜間の事故、速座の行動は採らざるも、斥候を走らして其の状況をさぐれば、昼間の如し。人心何も恐怖に襲われつゝある折柄なれば、仕出かす事皆斯の如くらちの開かざるもののみ

 次いで七日には事態の沈静化を次のように記す。

 鮮人騒ぎも漸やく衰退して、稍々小康を得たり。昨夜は警戒も解除されて、三日三夜の不眠に殆んと心身の波弊を来しけるが、昨夜は安眠するを得たり。然し民心は容易に安康するを悠(ママ)るさず、東京方面も今は鮮人の虐殺は厳禁し、平穏のサクを講じつゝありと

 政府は、偏見と誤情報がもたらした大混乱と恐怖の要因を問うこともなく、九月二〇日頃から、朝鮮人殺害にかかわった自警団関係者等の検挙をはじめた。我孫子町からは、「宮谷一外五名」が「李一弼外二名」を「棍棒杉丸太等を以て人を殺害」した「騒擾殺人罪」(前掲「関東大震災と朝鮮人」)で起訴された。一一月一九日には、このうち五名に懲役二年、一名に懲役一年六カ月の求刑がなされている。震災がもたらした「騒擾殺人罪」事件は、我孫子の暗い闇として、人びとの記憶に濃いよどみを残したまま、時の忘却に任されていく。


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