『野田市史 資料編 近現代2』 「徳島」は「香川」の誤り。

 「徳島」は「香川」の誤り。
『野田市史 資料編 近現代2』(2019年)の掲載資料(更新・上書き版)

2022年11月9日に掲載したのは資料のみで、後日「解説」部分を閲覧したところ、資料部分についての記述がありました。その記述を加えた「更新・上書き版」をあらためて掲載します。

加えた部分は、p.3からp.28に記述されている「解説」のうち、p.5に記述されている福田村事件該当部分と前後の関連部分の合計19行分です。


 『野田市史・資料編近現代2』

野田市/2019年2月21日

解説(p.5から抜粋)

 第三項では関東大震災関連及び消防行政に関するものを集めた。震災における東葛飾郡北部における被害は少なかったが、東京からの避難民への対応や、朝鮮人暴動に関する流言飛語に対する警戒などが行われた。I20は川間村の事務報告中の土木の項目で、道路改修状況を示したものだが、その中に地震による河川土手の亀裂・崩壊があったことが記載されている。またI21は、梅郷村の事務報告中の震災関係の記録で、三二一人の避難者があったこと、特別警戒が二日から十二日まで行われてことなど、援助活動が日を追って記録されている。隣村の福田村では、この警戒活動中に朝鮮人と間違われた徳島(ママ*)からの行商人九人が殺害される事件が発生した。I22~24は、事件の概要と、その求刑・判決公判を伝える新聞記事である。同事件については、辻野弥生『福田村事件 関東大震災知られざる悲劇』(崙書房、平成二十五年)がある。I25は野田町で行われた帝都復興促進会による映画界の案内状である。

 消防体制に関わる基礎的なものは、すでに前巻に掲載している。本巻に掲げたI26~28は、その補遺で、七福村の降雪消防組の組織と野田町の消防組規程及び梅郷村における大正末からの消防組の活動を示したものである。梅郷村のものには、大正十五年の野田醤油工場火災への対応が記されている。

「徳島」は「香川」の誤り
*次の投稿で、『福田村事件 関東大震災知られざる悲劇』(崙書房、平成二十五年)の関連部分を紹介します。



第一編大正後期から昭和戦後期の政治と行政
第一章第一次世界大戦後の政治・行政と社会
三 震災と消防

I20 川間村の道路改修 大正十二年 【略】

(川間村行政文書「大正十三年議事関係文書編冊川間村役場」大正十二年川間村事務報告抄録)


I21 梅郷村の震災関係庶務 大正十二年 【略】

(梅郷村行政文書「大正十三年村会々議録及議決書編冊 梅郷村役場」大正十二年梅鄉村事務報告書 抄錄)


I22 東葛飾郡福田村における騒擾 大正十二年九月

後編 関東大震災下の取締状況

 [中略]

第四章 自警団騒擾の勃発

[中略]

第一款 千葉県下の騒擾状況

[中略]

第九、東葛飾郡福田村に於ける騒擾

九月六日午前十時頃、香川県人である高松市帝国病難救薬院の売薬行商団一行が、売薬其の他の荷物を車に積み、東葛飾郡野田町方面から茨城県方面へ赴くべく、福田村三つ堀に差掛り、同所香取神社前で休憩した。然るに当時附近に於て鮮人の侵入するものあるべしと警戒に従事して居た自警団員が之を見附け、鮮人の疑があると称して右売薬行商団員を種々審訊して荷物を検査したところ、四国弁にて言語不可解な点等があった為め、右自警団員は全く鮮人なりと誤信し、警鐘を乱打して急を村内に告げ、又は隣村に応援を求めるに至った。其の結果、数百名の村民は忽ち武器を手にして同神社前に殺到し、前記売薬行商団を包囲し、「朝鮮人を打殺せ」と喧囂し、該行商団員等が百方言葉を尽して「日本人である」と弁解したに拘らず、鮮人に対する恐怖と憎悪の念に駆られて平静を失った群衆は、最早右弁解に耳を傾ける遑もなく、或は荒縄で縛り上げ、或は鳶口、棍棒を振つて殴打暴行し、遂には「利根川に投込んで仕舞へ」と怒号し、香取神社から北方約二丁の距離にある三つ堀渡船場に連れて行き、右行商団員九名を利根川の水中に投込み、内八名を溺死せしめたが、他の一名が泳いで利根川を横切り対岸に遁れんとするや、群衆中より船で追跡するものが現はれ、対岸で之を斬殺し、残つた五名の行商団員は急報に接して駆付けた巡査等の為め、辛くも救助されて僅に死を免れる等騒擾を極めた。

[後略]

(国立国会図書館所蔵 昭和二十四年九月特別審査局資料 第一輯「関東大震災の治安回顧」吉河光貞抄録)


I23 福田村事件求刑公判 大正十二年十一月

千葉県下の九人殺し求刑
懲役十五年以下の極刑

 既報、千葉県東葛飾郡福田村の売薬行商人九人殺しの公判は、午後五時再開、直ちに遠山検事の論告に入り、「被害者は、女や子供をつれ沢山な荷物を持つて川を渡って逃げんとするのを、川の中へ突き落として殺したのは、残虐も甚だしいもので、情状酌量の余地なし」とて、左の如く求刑し、九時閉廷した。(二十八日千葉発)

 懲役十五年(三名略)
  同 十 年(四名略)
  同 七 年(一名略)

(『東京日日新聞』 大正十二年十一月二十九日)


I24 福田村事件判決 大正十二年十二月

騒擾殺人事件判決
福田村の惨殺はさすがに重く最長は懲役六年

 邦人の薬売り九名を惨殺した事件を始め、船橋町の鮮人川八名殺害、馬橋村の同上六名殺害、浦安町の邦人二人殺害事件は、何れも十四日午後一時卅分、千葉地方裁判所安楽裁判長から左記の如く判決を言渡された[懲役六年二名、五年一名、四年一名、三年三名、二年(三年間執行猶予)一名、人名略]

(『萬朝報』千葉版 大正十二年十二月十六日)


『野田市史 資料編 近現代2』
野田の歴史をまとめた市史研究など2冊を頒布


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野田市では、以下のように市長を委員長とする市史編さん委員会を年1回開催されている。
https://www.city.noda.chiba.jp/shisei/shingikai/1008854/1009627.html

現在編さん中の市史は、平成17(2005)年から全9巻の『資料編』の刊行がはじまり、最新刊が2019年の『近現代2』で、あと3巻が残る。資料編全巻刊行後になるのか、相前後するのかどうかの野田市の方針は確認していないが、『通史編』3巻と『別編』5巻の刊行が続くわけで、すべてが刊行される時期はいつなのか、野田市民ばかりではなく多くの市民が知りたいところだろう。

第54回 野田市史編さん委員会会議

(以下、会議録の抜粋)

令和元年5月29日(水)午前10時30分から午前11時20分まで
野田市役所 2階 中会議室2

鈴木委員長:皆様方本日は大変お忙しい中、野田市史編さん委員会に御出席をいただきましてありがとうございます。
(中略)
 さて、野田市史編さん事業では、市史編さんの基礎となる『 野田市史 資料編』全9巻の刊行を計画しておりますが、本年2月に『近現代2』を刊行いたしましたので、『資料編』に関しては、残り3巻となりました。
 特に、残りの『資料編』では、関宿地域の資料を多く掲載する事となりますので、古文書などの歴史史料や、先人から受け継がれてきた、地域に密着した伝統文化の記録なども広く収集するため、野田市史編さん委員会の委員の皆様方のお力添えを、又お知恵を拝借したいと思っております。そのことによりまして課題を克服しながら事業を進めてまいりたいと思っておりますので、何卒よろしくお願いしたいと思います。


第55回 野田市史編さん委員会会議

(以下、会議録の抜粋)

令和2年12月2日(水)午前10時00分から午前10時45分まで
野田市役所 8階 大会議室


鈴木委員長:皆様方本日は大変お忙しい中、野田市史編さん委員会に御出席を頂きましてありがとうございます。
(中略)
 皆様御案内のとおり、野田市の歴史の流れを原始・古代から近現代まで記述する『野田市史 通史編』3巻と『別編』5巻の刊行の前に、市史編さんの基礎となる『野田市史 資料編』9巻の刊行を実施しておりますが、『資料編』に関しては、『近世2』と『近世3』、『近現代3』の残り3巻となっているところです。
 特に、残りの『資料編』では、関宿地域の資料を多く掲載することとなりますが、残り少ない古文書などの史料や、先人から受け継がれてきました、地域に密着した伝統文化の記録などを収集するためには、市民の皆様の御協力が欠かせないものと考えております。


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野田市駅での駅前市長室

昭和48年
昼間勤めていて市役所に行く機会が少ない人たちのために、夜に東武野田線の各駅前で開設された駅前市長室の様子。看板は「駅前市役所」となっている。中央の背広の人物が新村勝雄市長。

https://noda-muse.jp/7995/03%E3%80%90%E8%A1%8C%E6%94%BF%E3%80%91%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%B8%82%E9%A7%85%E3%81%A7%E3%81%AE%E9%A7%85%E5%89%8D%E5%B8%82%E9%95%B7%E5%AE%A4

野田市史資料編に事件記載のきっかけのひとつ、辻野弥生さんから野田市長への要望書(全2枚)と市からの回答書を画像で掲示します。






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