『野田市史 資料編 近現代2』(2019年)の掲載資料

 『野田市史・資料編近現代2』

野田市/2019年2月21日


第一編大正後期から昭和戦後期の政治と行政
第1章第一次世界大戦後の政治・行政と社会

三 震災と消防

20 川間村の道路改修 大正十二年 【略】

(川間村行政文書「大正十三年議事関係文書編冊川間村役場」大正十二年川間村事務報告抄録)

21 梅郷村の震災関係庶務 大正十二年 【略】

(梅郷村行政文書「大正十三年村会々議録及議決書編冊 梅郷村役場」大正十二年梅鄉村事務報告書 抄錄)

22 東葛飾郡福田村における騒擾 大正十二年九月

後編 関東大震災下の取締状況

 [中略]

第四章 自警団騒擾の勃発

[中略]

第一款 千葉県下の騒擾状況

[中略]

第九、東葛飾郡福田村に於ける騒擾

九月六日午前十時頃、香川県人である高松市帝国病難救薬院の売薬行商団一行が、売薬其の他の荷物を車に積み、東葛飾郡野田町方面から茨城県方面へ赴くべく、福田村三つ堀に差掛り、同所香取神社前で休憩した。然るに当時附近に於て鮮人の侵入するものあるべしと警戒に従事して居た自警団員が之を見附け、鮮人の疑があると称して右売薬行商団員を種々審訊して荷物を検査したところ、四国弁にて言語不可解な点等があった為め、右自警団員は全く鮮人なりと誤信し、警鐘を乱打して急を村内に告げ、又は隣村に応援を求めるに至った。其の結果、数百名の村民は忽ち武器を手にして同神社前に殺到し、前記売薬行商団を包囲し、「朝鮮人を打殺せ」と喧囂し、該行商団員等が百方言葉を尽して「日本人である」と弁解したに拘らず、鮮人に対する恐怖と憎悪の念に駆られて平静を失った群衆は、最早右弁解に耳を傾ける遑もなく、或は荒縄で縛り上げ、或は鳶口、棍棒を振つて殴打暴行し、遂には「利根川に投込んで仕舞へ」と怒号し、香取神社から北方約二丁の距離にある三つ堀渡船場に連れて行き、右行商団員九名を利根川の水中に投込み、内八名を溺死せしめたが、他の一名が泳いで利根川を横切り対岸に遁れんとするや、群衆中より船で追跡するものが現はれ、対岸で之を斬殺し、残つた五名の行商団員は急報に接して駆付けた巡査等の為め、辛くも救助されて僅に死を免れる等騒擾を極めた。

[後略]

(国立国会図書館所蔵 昭和二十四年九月特別審査局資料 第一輯「関東大震災の治安回顧」吉河光貞抄録)


23 福田村事件求刑公判 大正十二年十一月

千葉県下の九人殺し求刑
懲役十五年以下の極刑

 既報、千葉県東葛飾郡福田村の売薬行商人九人殺しの公判は、午後五時再開、直ちに遠山検事の論告に入り、「被害者は、女や子供をつれ沢山な荷物を持つて川を渡って逃げんとするのを、川の中へ突き落として殺したのは、残虐も甚だしいもので、情状酌量の余地なし」とて、左の如く求刑し、九時閉廷した。(二十八日千葉発)

 懲役十五年(三名略)
  同 十 年(四名略)
  同 七 年(一名略)

(『東京日日新聞』 大正十二年十一月二十九日)


24 福田村事件判決 大正十二年十二月

騒擾殺人事件判決
福田村の惨殺はさすがに重く最長は懲役六年

 邦人の薬売り九名を惨殺した事件を始め、船橋町の鮮人川八名殺害、馬橋村の同上六名殺害、浦安町の邦人二人殺害事件は、何れも十四日午後一時卅分、千葉地方裁判所安楽裁判長から左記の如く判決を言渡された[懲役六年二名、五年一名、四年一名、三年三名、二年(三年間執行猶予)一名、人名略]

(『萬朝報』千葉版 大正十二年十二月十六日)



『野田市史 資料編 近現代2』
野田の歴史をまとめた市史研究など2冊を頒布

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