福田村事件80周年と追悼碑建立-その1

 福田村事件の犠牲者追悼の慰霊碑建立について、犠牲となった被害者側の香川県の記録と文章を3回に分けて掲載します。
 その1とその2は「解放新聞(香川版)」の文字起こしです。その3は、香川県歴史教育者協議会(歴教協)の会長として事件の証言を集めるなど真相調査を行った石井雍大(ようだい)さんが生前に慰霊碑背面について書いた文章の書き起こしと関連情報を掲載します。
 なお、その1の慰霊式発言者の年齢は削除しました。(保存会)


福田村事件80周年と追悼碑建立-その1
「解放新聞(香川版)」第108号 2003年9月25日

福田村事件80周年N0.1

■慰霊碑が完成

 福田村事件の犠牲者9人の追悼慰霊碑が事件現場の千葉県野田市三ツ堀の円福寺大利根霊園に建立され、9月6日に香川や千葉などから遺族ら200人が参加して除幕式が行われた。
 追悼碑は黒御影石づくりで、台座を含めて高さ3メートル。表に「関東大震災福田村事件犠牲者追悼慰霊碑」と刻まれ、裏面に犠牲者の戒名、俗名、年齢が記録されている。
 除幕式終了後、近くのホテルで「福田村事件80周年追悼集会」が開催され、遺族などのあいさつに続き、姜徳相氏(カントクサン・県立滋賀大学名誉教授)が関東大震災と朝鮮人虐殺の真相について講演(*1)した。参加者は、福田村事件を今後の反差別人権教育の教材とすることを誓いあった。
 豊中町から参加した遺族代表の西方正明さんは、「おじ、おば、いとこの3人が犠牲になった。こんな立派な碑を作ってもらって皆喜んでいる。差別を無くすことこそ最大の供養と思う。今後は加害、被害の立場を乗り越えて、千葉と香川で手を合わせて差別のない社会づくりに努力したい」と建立の為に尽力した地元の人に感謝した。
 事件で奇跡的に助かった大前春奈さんの義娘は、「義父は無事に生きて帰り、84歳で他界。生前は自分だけ生き残ったと何かにつけて自分を責めていた。行商は辛い仕事だからといって9人の子どもを職人にした。義父が生きていたらさぞかし喜んだだろう」と語った。
 地元有志7人で参加した小山新一郎さんは、「私は大正7年生まれで、事件当時5歳だった。純朴な福田村の人たちはデマにだまされて「朝鮮人は敵だ」と信じ切っていた。親からは、「朝鮮人だから」というので殺されたと聞いている。戦後、じつは四国の部落の人だったというのが広がった。当時はやむを得えない事情があったと思うが、あってはならない事件だと悔やんでいる。この集会をきっかけに人権問題に頑張りたい」と、地元の複雑な心境をのぞかせた。
 除幕式だけに顔を見せた根本崇・野田市長(*2)は「はじめて福田村事件の場に出席した。犠牲者の思いをしっかり受けとめて市民の心を作っていきたい」と語った。「謝罪は」との質問に対しては、「しっかり受けとめて今後の人権行政に生かしていきたい」と繰り返し、謝罪問題には触れなかった。

【除幕式参加者】
▶香川
遺族、福田村事件真相調査会、香川人権研究所、詫間町長など三豊郡1市9町、部落解放同盟香川県連
▶千葉側
福田村事件を心に刻む会、建立基金協力者、旧福田村住民有志、千葉県、柏市、野田市(*2)、市議会有志、千葉県人権啓発センター、千葉県同企連、朝鮮総連東葛支部、自治労柏市職、部落解放同盟千葉県連、同野田市協
▶東京
東日本部落解放研究所、部落解放同盟中央本部、同閃東地方協議会、練馬人権センター
▶埼玉
人権啓発企業連絡会
 
*1 姜徳相氏の講演録は以下のページに掲載。
*2 「事件はあくまで民間どうしのもの」として、根本崇・野田市長は「私人」として出席した。
 野田市は現在も「事件はあくまで民間どうしのもので、加害者側がすでに罰せられているほか、協力の要請などが地元の地区からないため、関わらないと判断している」と報じられている。

■福田村事件とは
子ども・女性ら9人惨殺

 1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。「朝鮮人が襲撃してくる」とのデマが流され、関東各県に自警団が作られた。2日からは各所で厳戒態勢がしかれ、自警団の若者が日本刀や猟銃、鳶口などを持ち出して要所の警戒に立ち、「不審な朝鮮人(不逞鮮人)」と見ると片っ端から迫害弾圧した。自警団の中には興奮して暴徒化する者もあり、各地で自警団暴力が多発した。その1つが福田村事件である。震災発生から5日目の9月6日、千葉県東葛飾郡福田村三ツ堀(現在の野田市)の香取神社で3豊郡の被差別部落出身の売薬行商人一行15人が自警団に襲撃され、子どもや女性ら9人が惨殺された。襲撃したのは福田村と田中村(現柏市)の自警団で、事件現場の地名から福田村事件と呼ばれている。


 福田の地元では「聞き慣れない讃岐弁のために朝鮮人と間違えた」と、まるで犠牲者に責任を転嫁するような「朝鮮人誤認説」が根強い。しかし他に類似事件はない。当時、香川県が行った被災者調査(11月15日現在)によると、香川県人の震災被災者数は994人(本件被害者が含まれているかどうかは不明)。所用で関東方面に出かけていた香川県人だけでも1000人を越える。全国各地から上京していた人は相当な数になるが、他に方言誤認事件は問題になっていない。
 そもそも行商人は県発行の鑑札(行商証明書)をもっていた。生存者の証言によると、事件前日まで鑑札を見せて自警団の信用を得て行商出来ていた。
 生存者は福田村の駐在が「あやしい者では無い」と証言している。
 行商の一行は君が代を歌ったり、お経を読み上げたりイロハも暗唱した。しかし興奮した自警団員の若者は納得せず、ヤジがだんだん激しくなって、ついに「やっちまえー」と襲撃した。行商人の首を一人ずつ針金で縛り、逃げようとすると鳶口で頭を割り、日本刀で斬りつけた。一度にウンカが集まるような散じよう(ママ。「惨状」の誤り?)となったので、誰の一撃が致命傷となったのかも分からない。「子どもだけは助けてーッ」と母親は利根川に胸までつかりながら子どもを両手で差し上げて命乞いしたが、自警団は許さなかった。さらに泳いで対岸へ逃げ切った青年を田中村自警団は舟で追いかけ殺害した。アッという間に9人の命が利根川に消えてしまった。無抵抗な子どもや女性に大勢の自警団員がアリのたかるように襲いかかった。助かったのは、小児マヒで足が不自由だった男性ら6人だけだった。


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