冊子「福田村事件の真相」その4 姜徳相「もう一つの虐殺事件」

<2000年の講演から>

もう一つの虐殺事件

滋賀県立大学教授 姜徳相

■犠牲者側から歴史を見る

 今から77年前、関東大震災の時に虐殺された側からの話です。耳障りなことがあるかも分かりませんが、足を踏まれた人の方が踏んだ人よりは事実をきちんと見る目があると思うからです。
 9月1日に全国で5~600万人が防災訓練に参加した、とテレビ報道がありました。地震国だし、80年前の震災では15万人の犠牲者が出たから防災訓練をやる、それは過去に学び現代を考えるという点では意味があります。しかし、在日韓国人から見ると何か欠けていると思わざるを得ません。それは何かというと、関東大震災の体験者が語っているのは、マグニチュード7・9の震災や火災ではありません。一番恐かったのは、火災の中で逃げまどう時「朝鮮人が暴動を起こしている」と流言が起こり、町中で市街戦や虐殺が行なわれ、それから逃げるのが一番恐かったのです。戒厳軍隊が進駐し、官民1体の朝鮮人狩りがやられ、犠牲者は6500人と言われますが、何人死んだか分かりません。今だにどこで、誰が、誰のために、何人殺されたか分かりません。我々の立場から言うと民族受難史です。歴史の教訓として学ぶべきは人災の面です。
 現在日本には総人口の1%を越える外国人が居住し、多民族社会を構成しています。人災の局面が語られないなら、歴史の欠落と言わねばなりません。そればかりか、当の石原東京都知事は「不法入国の凶悪な外国人、第三国人がウヨウヨしている。災害が起こったら何が起こるか分からん」と言いました。石原氏の発言は77年前、当時の警視総監が「警備力、警察力が壊滅した時に不逞鮮人が何をするか分からん、だから戒厳令を敷く」と言ったのと同じです。歴史は何一つ学ばれていません。まさに繰り返されるように思います。


■真相を求めるためには

 関東大震災で朝鮮人が何人殺されたか、上海の臨時政府は1万人と言います。ところが総督府はたった2人と言います。当時の吉野作造氏や朝鮮人が後に調べた結果、約6500人という推定があります(吉野の調査結果は2613名余、『独立新聞』の調査結果は6661名/保存会による追記、以下同)。これは真実に近いと思います。朝鮮人は日本の官憲に住居が把握されていました。横浜と東京では当時、朝鮮人2万人との統計があります。1923年8月の統計で、雑誌『太陽』に載っています。ところが震災で虐殺が行なわれ、それが間違いと分かった9月4日以降は、「殺すな、全て警察に連行せよ、全て軍隊に連行せよ」という指示が出され、その結果総員検束ということになり、検束された朝鮮人が習志野収容所や警察施設に収容されます。その人数は1万1000人、2万人から1万1000人を引くと9000人です。逃げたりした人をのぞいても、6500人という数は当てずっぽではありません。

 何処で、誰が、どのようにして、誰に殺されたのか、真相は何一つ分かっていません。日本政府は調査していないし、謝罪もしていません。関東に20の慰霊碑があり、山田昭次氏がこれを調査したところ、日本人が建てた碑は12ありますが、それには誰が殺したか加害者が書かれていません。3つの碑には「流言のために悲惨な最後を遂げた人」と書かれていますが、これらも誰が殺したかは書いていません。最近、千葉県八千代市に建立された碑も「無縁仏または異国人の墓」と書かれ、加害の事実をあいまいにしています。例外は八千代市の寺に建てられた碑で、これには犠牲者が3人の朝鮮人だと明記しています。しかしこれにも加害者は書かれていません。もう一つは1947年に朝鮮総連が船橋市に建てた碑、この碑だけが加害者を明記しています。まだ歴史の「落とし前」はついていません。今だに各地であいまいになったままです。
 政府だけでなく、民衆もそうです。実際地域ぐるみで虐殺に関わったのに、そのことが語られていません。公言してはいけない記録が聖域としてあるような気がします。この事件は、今だに在日の惨劇として大きな問題ですが、地域住民の間では決着がついていません。
 ではどうして推定6500人もの人が殺されたのか、背景は近代の不幸な日韓関係にあります。日本は近代国家を作る時、幕藩体制を中央集権化するために天皇制を利用しました。そのため古代日本の統一国家のバイブルである『古事記』『日本書紀』を史実として利用しました。それが日本の近代化において対韓ナショナリズムにすり変わりました。天皇制確立と朝鮮蔑視、朝鮮差別はこんな関係にあります。明治の栄光は朝鮮を下敷きにしたものと言っても過言ではありません。征韓論、日清戦争、これは最近明らかになったことですが、日韓戦争でもありました。そして日露戦争、近代日本の栄光は全て朝鮮支配のためのエネルギーでした。そこに対韓ナショナリズムが生まれ、侵略の果実という現実の利益をもたらす形で民衆に還元され、民衆をまきこんでいったのです。
 他方、朝鮮民族から見ると、日本の侵略に反対し民族とその国家を防衛するためのナショナリズム、それを実現する独立運動が起こりますが、これは日本の攻撃的な対韓ナショナリズムへの対抗でした。
 韓国民衆は朝鮮民族の尊厳と生存のために、日本に対して独立戦争、民族解放運動を挑みました。この関係がもっとも表面化したのが日本の韓国併合でした。大日本帝国の成立で、日本は単なる労働者農民と地主・資本家・天皇という対立軸による階級国家ではなく、もう一つ民族対立を軸とする複合民族国家になりました。

■排除と弾圧の歴史

 大日本帝国時代には、多くの政府情報機関が暗躍しました。その記録は『社会運動の状況』や『思想月報』、『特高月報』などに残っています。彼らが一番力を入れたのは、日本の左翼や労働組合や宗教ではありません。最も予算と人員を投じたのは朝鮮独立運動で、朝鮮の社会主義者に対する監視と警戒でした。日本の支配層は、日本は単なる階級対立の国家ではなく民族対立、つまりいやがる韓国を併合したために絶えず朝鮮の分離独立に脅かされる、そういう不安を持っていました。例えば、朝鮮半島解放の1945年8月当時、日本の刑務所に朝鮮人が2万人いました。むろん思想犯だけで、経済犯は別です。朝鮮でも2万人の朝鮮人が日本によって刑務所に入れられていました。日本の支配層が誰を一番警戒していたかを示しています。1945年10月、日本共産党の人達が府中刑務所から釈放された時、迎えに行ったのはほとんど朝鮮人でした。大極旗が翻えり、私も中学生でしたがその場にいました。日本の戦争責任がよく言われますが、朝鮮人は戦争に加担しなかった、そのことは、戦前の日本社会で朝鮮人がどういう位置にいたかを物語っています。天皇を尊敬しない異質な集団と見られていたのです。その証拠は、韓国併合後の1913年に内務省が出した「朝鮮人識別資料に関する件」という秘密通達です。韓国併合の結果、朝鮮人が日本によく来るようになったので日本人と朝鮮人を識別して監視する、つまり治安対象とするよう指示したものです。「朝鮮人はガギグゲゴが言えない」「パピプペポが言えない」「アゴ骨が出ている」「目が一重マブタである」など、民族的特徴をあれこれ取り上げています。この識別法が関東大震災の時、自警団による朝鮮人狩りに利用されました。
 民族対立が最高に達するのは1919年、関東大震災の4年前です。朝鮮で3・1民族独立運動が起こり、全朝鮮民族2000万人が参加したと言われています。これに日本政府は仮借なき弾圧を繰り返します。憲兵や軍隊は武器を持って素手のデモ隊に襲いかかり、7500人が亡くなりました。万歳を叫び「日本から分離独立したい」と言っただけで7500人が殺され、2万人が負傷しました。以後1945年の解放まで民族対立は続きます。「いかに残酷だったか、一例を紹介します。3月10日、今の平安南道の孟山で、100人の天道教徒が日本の憲兵派出所に「朝鮮は独立したい」とデモをしたところ、ドブロクに酔った人を日本兵が銃撃しました。81発撃って57人が即死、帰宅後に死んだり途中で不明になった人を含めると計67人もが死亡しました。100人のデモ隊に81発の弾丸を撃って67人を殺す、まさに戦争です。一発必中の気持ちでなければ不可能です。朝鮮独立運動をいかに日本政府が怖れていたかを示す例です。朝鮮全土で7500人が殺されました。
 朝鮮国内での民族独立運動は失敗します。しかし、独立運動は朝鮮民族がいるところで継続します。今の延辺朝鮮族自治州には200万人の朝鮮人がおり、そこでは独立闘争が武装闘争になりました。武器を持った朝鮮人が国境を越えて繰り返し進出するし、シベリア派兵の日本軍と闘うため、ソビエト・ロシアの革命軍と手を組んで闘いました。朝鮮では平和的なデモだった独立闘争が日本の厳しい弾圧の結果、「目には目を」と武装闘争に変わりました。これに対して日本の関東軍と朝鮮駐留の朝鮮軍は越境し、民族対立が最高に達するのが1920年10月、延辺居留民の大悲劇です。中国側資料によると約4000人が殺されました。3・1運動と間島事件は関東震災悲劇の背景となります。
 大震災の背景には日本と韓国の不幸な関係があります。これを考えないと単なる東京での朝鮮人残酷物語になり、歴史的意味が失われます。9月6日に香川県人9人が殺された福田村事件が起きた歴史的大状況が以上述べた事です。

■大震災と戒厳令

 では東京や横浜では9月1日以降、どんなことが起きたでしょうか。
 震災発生直後、東京や神奈川に戒厳令が布かれます。戒厳令は、日本の権力が危機に瀕した時、民衆の権利を最小限に制約するもので、明治15年(1882年)初めて立法化されました。極めて強大な権力で、日本帝国がなくなるまで何回も布かれてはいません。
 1回目(1894年)は日清戦争で大本営が広島に移り、広島地域が臨戦地域として戒厳区域に入った時。2回目(1905年)は日露戦争の講和会議に反対する民衆が日比谷暴動を起した時。3回目は2・26事件(1936年)の時。全て、臨戦とか暴動とか軍隊の反乱とか事実認定の上で施行しています。関東大震災ではなぜ戒厳令が布かれたのか、ここにはある予測、「軍事力、警察力が微弱な時、仮想敵国の朝鮮独立運動派の朝鮮人が、東京や横浜でこの機会を狙ってくるに違いない」との先入観が一番の原因となっています。内務大臣水野錬太郎、警視総監赤地濃、東京駐屯の第1師団長石光真臣、この3人は3・1運動や間島戦争の時、朝鮮の民族運動と直接対決した日本の前線司令官でした。3・1運動の時、水野氏は朝鮮の政務総監、赤池氏は警務局長、石光氏は朝鮮の19師団長でした。3人は植民地の最前線で民族運動と朝鮮人の恐さ、したたかさを身を以て体験しています。3人が東京で日本の治安を司った時、「この際朝鮮人は必ずやるだろう」と先入観を持っていました。これが戒厳令を布き軍を動員した理由です。戒厳令は民衆の権利を制約し、国家が自分の意思を押しつける法律です。もし法律どおり治安を確保するためなら、東京や横浜で自警団が朝鮮人を虐殺しているのを何故黙って見ていたのか、ここに敵視対象が朝鮮人だった理由があります。また、戒厳軍が朝鮮人を虐殺した事実はそれを証明しています。
 これを見た若者たちが「お国のために我々も手伝いしよう」と自警団を組織し、官民一体の自警団による朝鮮人狩りになり、それが9月1日夜半から始まります。2日には各地に自警団が展開し、3日、4日には虐殺は最高潮に達します。
 次に当時の戒厳軍隊の行動と自警団の行動を具体的に明らかにします。
 戒厳軍隊に参加した人の回想録によると、「敵は帝都の近くに有り」と指揮官の命令で兵士は実弾を持って出動しました。『東京震災録』によれば、「品川目黒池袋渋谷方面より不逞鮮人多摩川を渡河して襲来する報あり。これに応じて師団は騎兵及び兵を派せしめるとともに目黒、世田谷方面に出動して鮮人を鎮圧し」とあります。軍隊用語で「鎮圧する」とはどういうことか分かるでしょう。壊滅状態の警察は道々に検問所を置き、軍隊と協力して検問に当たりました。

 ――検問に際しては通行人の服装、携帯品に注意し夜間は一切通行人に対して、昼間は不審と認める者に対してその住所、氏名、出発地、目的地、通行の用件、その他について十分な取り調べを行ない、容疑のある者は直ちに検束し送致すべき――
 
 警察は戒厳令の補助機関として機能しました。アリ1匹入れる隙もない封鎖体制、その中で軍隊と警察が朝鮮人の住む所へ出掛けて槍玉にあげる、そして連行する、これが2日、3日、4日にかけて行なわれました。手当たり次第に関東一円で行なわれました。
 埼玉県では中山道中心に朝鮮人狩りをやっています。県の内務部長が各郡、各市町村に通牒を出しています。

 ――東京の震災に乗じて暴行を為した朝鮮人多数が川口方面或いは本県に入るやもしれないが、その間過激思想を有する徒これに和し、もって彼らは目的を達せんとするおもむきであるからと聞き及び暫時その毒牙を振るわんとする怖れあり。ついてはこの際警察力微弱であるから、町村当局者は在郷軍人分会、消防手、青年団員等と1致協力してその警戒に任じ一朝有事の際には速やかに適当なる方策を講じるよう至急相当手配相成りたき旨その筋の来牒により移牒に及び候也――
 
 「過激な徒」とは社会主義者のことです。背後にソビエト・ロシアがいて「赤の扇動」によるというのです。「赤の扇動」とは、シベリアで朝鮮独立軍が日本シベリア出兵軍と戦闘を交え、朝鮮独立運動が社会主義的方向に急速に転化していったことと符合します。自警団は警察指定以外の道路に非常線を張りました。むろん自分の生活地域中心です。通行人を誰何する時、異質な人間に対し「15円55銭を言え」と、全部ガギグゲゴの濁音です。朝鮮語には濁音がないので言えません。「君が代を歌え」と、君が代なんか習っていません。「ドドイツをやれ」「こいつはノッペリ顔だ」「一重マブタだ」「ゼッペキ頭だ」あるいは髪の毛、こんな朝鮮人識別法で自警団は判断材料にしました。
 「日本の民衆は朝鮮人に対して差別意識が強かった」と日本の研究者はよく言いますが、ここには官憲を免罪する姿勢があります。それより直接朝鮮人を敵視するプロ集団を重視すべきです。その頃朝鮮人は東京、横浜で2万人しかいませんでした。彼らは日本人とは混住せず、多くはバラックの飯場や労働現場で集団で暮らしていたので、多くの日本人は朝鮮人に会う機会があまりありませんでした。朝鮮人といえばニンジン売りとかアメ屋のおっちゃん、留学生ぐらいしか思っていなかったのです。なのに町のおじさんがどうして朝鮮人の民族的特質を知っていたのでしょうか。軍隊とか特高のプロが教えていたのではないかと思います。言えない者は全て剣や竹やり、鳶口等で寄ってたかって殺す、自警団犯罪とは1人が1人を殺すのでなく、何十人もが寄ってたかって1人の朝鮮人を殺すのです。そういう中で罪の意識が拡散してはっきりしない特徴があります。
 あちこちで自警団は犯罪を犯しました。新劇で有名な千田是也氏、本名は伊藤圀夫といい、当時千駄ヶ谷に住んでいました。新劇青年の彼は、当時から現代の若者のように長髪で目につく存在でした。それで自警団に引っ掛かって危なく殺されそうになったのですが、たまたま知り合いが通りかかり助かりました。そこで彼は「千駄ケ谷のコレア」、つまり千田是也となったといわれます。
 最近、自警団に関わった人、あるいは自警団殺害を目撃した人の証言がたくさん出ています。例えば隅田川の白髭橋で起きた事件。ハチマキ・竹やり・日本刀・猟銃などを持った自警団が避難者の列に鋭い目を向け、その中の1人の男に「帽子を取れ」と怒鳴りました。「きやつは怪しい」と自警団の1人が45~46才の男を指差し、「後頭部はゼッペキだ」「鮮人に間違いなし」と男を列から引き離しました。男はとっさに何も言えずブルブル震えていました。「どこから来た」「どこへ行く」「返事をせんか、この野郎」「おまえ朝鮮だろう」「ガギグゲゴ言ってみろ」「こいつは怪しい」「朝鮮人だ、やってしまえ」、いつの間にか男は荒縄で縛られ隅田川に投げ込まれました。
 おそらく福田村事件も同じような状況で殺されたのではないか、自警団暴力とはこういうものだったのです。

■消えた朝鮮人の運命は

 9月3日、4日と「朝鮮人狩り」の市街戦が続いた後、日本政府は「朝鮮人が集団で犯行を犯したり攻めてくるようなことはない」と気付きます。そして「エライことをした」と思います。朝鮮支配のために大変な失敗をしたことも分かりました。そこで政府は、「朝鮮人が暴行したことは事実である。しかし町で殺してはいかん。彼らを警察或いは軍隊に連行しろ」と、助かった人を9月4日夜から5日にかけて各警察署、あるいは軍隊の駐屯所に集めることにしました。私の調べでは東京だけでも4052人が収容され、軍の演習場に連行されたり軍艦に収容されたりした人が約1万1000人います。
 1万1000人が収容された施設のうち、最大の施設は千葉県習志野の捕虜収容所です。ここの収容状況を見ると、9月5日から収容が始まり、最高人数に達したのは14日で3200人になっています。9月5日から14日まで、各警察あるいは東京の軍事施設にいた朝鮮人の一部がここに送られて来ます。ところが9月15日からは減少に転じます。釈放されたのではなく、習志野から朝鮮総督府の救護所とか朝鮮総督府の関連施設などへ送られる者が出てきます。9月15日以降の釈放者日記に、毎日どれだけ釈放されたか書いてありますが、最終日は10月20日、これによると2925人が釈放されたとあります。別の資料では2915人、収容者と釈放者に10人の違いがあります。その差は前者でみると275名、後者でみると285名、300名近い行方不明者がいます。町で殺されたのではなく、政府が命を保障すると約束して習志野に送られた人達、自警団暴力や警察の暴力から何とか逃れて国家が収容所に保護し、命を保障された人達です。ところがその3200人が全員釈放されるところで285人がいなくなっています。これは一体どういうことなのでしょうか。
 ある作家は機関銃でなぎ倒したと書いています。志賀義雄氏も『7つの不思議な物語』で同じ事を書いています。300人も機関銃でなぎ倒すのはいかにも乱暴です。無論、収容された人の中には重傷を負って収容中に死亡した人もいたでしょうが、1割近い人間が死ぬとは多すぎる、と疑問が残ります。
 日本当局は、虐殺が朝鮮にバレることを極度に警戒して1人も釈放しませんでした。どのような文書を持ってこようと、絶対に釈放しないのが鉄則でした。そうすると、1割近い人間がいなくなるのはますます不思議です。
 疑問を崩したのは、千葉県に於ける関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼調査委員会の資料集『関東大震災と朝鮮人習志野騎兵連隊とその周辺』ともう1冊の資料集でした。習志野騎兵連隊の歴史を地域の先生が子供に教えました。「ここに3千何百人の朝鮮人が収容された」と子供に語り、子供はそれを作文に書き朝日新聞千葉版に載りました。それを契機にお爺さんが体験談を話しはじめました。小学生、中学生、教師による地域の聞き書きが始まり「なかなか言えなかったことだが」と重い口を開いたのです。その中にたいへん貴重な証言があります。「習志野収容所では思想調査が行なわれ、思想の悪い者を軍隊の営倉に入れました。『関東戒厳司令部詳報』が東京都公文書館で3、4年前に発見されました。これに、9月5日午後10時頃、千葉郡大久保村南端の軽便鉄道踏み切り付近で、習志野収容所の騎兵14連隊の菅谷大尉他兵卒2名が、習志野収容所に収容した朝鮮人を殺害した、と書いています。

――不遜の言動を為し反抗的態度を取りたる氏名不詳邦人(朝鮮人の間違い)8名を受領し、憲兵分隊に護送中、上記の場所大久保村(ここに殺された人の墓がある)に差し掛りたる際、彼らの1人は突然護送兵の銃を捉え他の1人は大尉にうちかかり、他の6名も棒または石を以て暴行を始めたるより、兵器を用いる非ざればこれを鎮圧するの手段なきものと認め、護衛兵に命じ全部之を刺殺した(『関東戒厳司令部詳報』第3巻付録、東京都公文書館蔵)、「氏名不祥邦人」は朝鮮人の誤りです。よく読むと殺害理由が「不遜の言動を為した」とありますが、ようやく命が助かって恐怖に打ちひしがれている人がどうして「反抗的態度」をとるのでしょうか。「不遜の言動」と言い掛りを付けたのは、官憲がこの8人を収容する過程で「思想不遜、不穏」、あるいは独立運動関係の容疑で摘発し、憲兵隊送りになり、それが「密室の処分」であることを察知した犠牲者が死を決して逃亡を企てた結果、街道であの世送りになったと思われます。
 
 こう考える手がかりは9月5日の臨時震災救護事務局警補部による「鮮人問題に関する協定」という極秘文書にあります。

 鮮人問題に関する協定
 第1、......略......
 第2、朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し肯定に努むること、尚左記事項に努むること
    イ 風説を徹底的に取り調べ之を事実として出来得る限り肯定すること
    口 風説宣伝の根拠を充分取調ぶること
 第3、......
 第4、......
 第5、......
 第6、朝鮮人等にして、朝鮮、満州方面に悪宣伝を為すものは之を内地又は上陸地に於て適宜阻止の方法を講ずること
 第7、海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を先導したる事実ありたるることを宣伝するに努むること。

  第2のイ、ロは朝鮮人虐殺の原因で、「暴動」「放火」「投毒」が単なる流言でなく、根拠があったと捏造しています。「官製真相」の宣伝を意図したもので、のちの新聞報道などでその「真相」は遺憾なく宣伝されたが、問題は伏せ字になっている第3、第4、第5項目です。公表を予しない極秘文書の中で、さらに伏せ字扱いにした意味は何でしょうか。第1第2の文脈の展開から第7の転結に至る中間に入るのは、朝鮮人および社会主義者対策で、永久に公表できない軍・警主導の恐ろしい了解事項ではあるまいか。ゆきすぎた想像は慎みたいが、伏せ字の中の第1項に「赤化鮮人」社会主義者の「行動ハ国家ニ有害ナリト」「コノ際断固タル処分ヲスヘシ」ぐらいの文字があってもおかしくありません。

■収容所の真実

 3・1運動を契機に、朝鮮解放運動の社会主義路線は急激に高まりました。在日朝鮮人運動も例外ではありません。「朝鮮労働同盟などの民族的感情を越えてプロレタリアートとして相携えて日本特権階級に抗争せん」との叫びが日一日と強まっていたからです。日本の悪法反対闘争やメーデーの行進には、朝鮮人が同盟旗を振りかざして先頭に立っていました。朝鮮人は日本の社会主義運動、労働運動の中心になりつつありました。特高警察が解放運動の高揚を民族的・階級的の二重の憎悪の対象にすえて弾圧を繰り返しましたが、軍部もまた朝鮮人に激しい敵意をもっていました。
 日本軍部はすでにロシア革命後、武力闘争に転換した朝鮮独立運動と激突していたことを考えて下さい。3・1運動、間島事件、シベリア干渉戦争と続く中で、軍部の挫折感は苦く、おりのように沈殿していました。特に第1師団長石光真臣はシベリア侵略軍の司令官として、したたかな敵「赤化鮮人」の存在に憎悪を燃やしていました。軍・警一致の朝鮮人敵視観は臨時震災救護局警備部の設置とともに、警視総監が参与として会議に出席し、警備部では戒厳司令部・陸海軍両省・憲兵司令部・警視庁の各主任が毎日午前中協議して各方面の情報を交換し、警戒方針を協議する中で益々増幅していったのです。
 当時、警察は在日朝鮮人の思想をマークして行動を常時監視し、思想性・民族性・政治性の強弱を甲乙に分類した『要視察鮮人編入簿』を作っています。内務省内規によると甲号指定には普通5人、乙号指定には3人の専門尾行者が付きました。警察はこれらの「不逞名簿」を警備部に提出し、連日「主義者」「不逞鮮人」一掃を協議したと思われます。殊に9月9日以降、警備部は特別協議会を開き、戒厳司令部参謀・陸海軍軍務局長・司法省刑事局長・検事・朝鮮総督府参事官・警視庁刑事局長等が連日参会して、震災に伴う犯罪の捜査、検挙に関する方針を協議しています。主任会議から局長級会議への格上げは、むろん自警団対策もあったが、伏せ字項目のさらなる具体化でもありました。
 では思想の選別、あぶりだしはどのように行なわれたのか。
 収容所生活の体験者・申鴻湜氏によると、収容所は陸軍教導隊が管理していました。教導隊とは思想浄化を意味します。被収容者はまず少数単位の組別に分けられ、その中で「思想堅固にして稍々有識あるものが組長」にされ、「秩序と規律」ある生活を強要されました。規律を乱したものは「打ち殺す」など、恐怖が支配していました。虐殺の真相究明とか待遇改善などの動きに対しては、「朝鮮語に堪能な」スパイを投入し、「あらゆる機会をとらえて」収容者の「行動及赤裸々なる雑談を聴取」しています。
 警視庁の習志野出張刑事は「要視察、要注意鮮人には其の言動を内偵」し、摘発しました。「警視庁検事局相協力し熱心に是が調査に努め」、各警察の刑事も「鮮人取り調べの為収容所に来ては安永義、金徹、金永洙等は注意人物なる旨伝達」したりしています。官憲各機関はよってたかって「不運」思想の持ち主を洗い出したのです。
 申鴻混氏は自分の体験を次のように証言しています。

 ――私は学生だったので、収容されている朝鮮人に国語、つまり文字を教えていたんですね。そうすると教導隊から呼ばれた。そして、なぜそういうことをするのかと問われ、「文字を教えるのが何か悪いのか」と発言したところ、「おまえは思想がおかしい」と言われた。しかし私はたまたま運が良かった。私を呼び出して尋問した人間と私の先輩が同級生で、それで、私は命拾いした。私は思想を調査された。だけど私はそういう偶然によって無事だった。しかし仲間は拡声器で呼ばれて帰ってこなかった。どうしたのかと聞くと、親戚か何かに呼ばれたんで帰ったんだろうということですね。ところが私の疑問は、もし親戚か誰かに呼ばれたんならさようならのあいさつがあるべきだろうが、それもなにもなかった。これは恐らく、思想調査で呼ばれて殺されたんではないだろうか

 習志野14連隊、15連隊の書記だった相沢安氏は次のように証言しています。

 ――救護する目的で連れてきたんですけど、朝鮮人が暴動を起こしそうだというんで朝鮮人を引っ張りだせということで......私の連隊の中でも16人営倉に入れた。それが4連隊あるんですから......おかしいよと思うものをみんな連隊に引っ張りだして調査したんです。軍隊の中で。そしておかしいようなのはホラ、よく言うでしょう。みんな切っちゃったんです。切ったところは大久保の裏の墓地でした。ここへ引っ張っていって切ったんです。私は切りません。30人くらいいたでしょうね」(『習志野騎兵連隊とその周辺』)

 今1人は第十5連隊勤務の軍曹瓜生武氏。

 ――私等が隊に帰ったのが9月13日か14日かはっきりしないけれど、9月15日から習志野の支鮮人収容所に勤務したんですよ。あまりケガをした者は見られなかったですよ。思想がおかしいやつはね、そっちやこっちや聞き込んで引っ張りあげて営倉というのがあってね、そこへ一時入れて間諜を入れてね、スパイですね。中には共産党のいろいろのがあったでしょうから......私は憲兵に引っ張られるのには関係がなかったが、営倉の中に何人かいたのは見たですね。その中に憲兵か何かが一緒に入って思想なども調べたんでしょう。そして悪いのは殺したかどうか......朝鮮人が暴動を起こしたと聞いた時、私は信じましたね。兵隊全部、信じたのではないですか。上から来たし、兵隊は単純ですからね、すぐ信じて飛び出す(『習志野騎兵連隊とその周辺』)申鴻湜氏と瓜生武氏、相沢安氏の証言は、殺される側と殺す側にありながら「怪しい奴の引致、思想調査、営倉入り、苛酷な追及、切った」という点で近似しており、申氏の言う「帰らない人」が「適当処分」されたことは間違いありません。
 
 ではどんな処分があったのか。特異なのは、「処分鮮人」を周辺自警団に配給し処分したことです。

■人間の尊厳を無視して

 大和田新田の阿部こう氏の証言。

 ――9月10日前後、15日くらいか、大和田新田に3人の朝鮮人が来るからもらいに来いという御触れが回ったのよ。この辺は全部3人、朝鮮人をこの辺に配給してよこしたわけよ。大和田新田、大和田萱田、どこもかしこもみんな3人ずつ。多いところで4人ぐらい行ったかしら。貰いに行った場所は習志野ケ原まで行ったか・・・・。手は後手に、足はやっと歩けるくらい1メートル位離して足と足とを縛ってあった。麻縄がまいてあった。一番年輩者が42~43才。35~36才、27~28才の人もいたかな。3人来たの。夕方3時頃からか4時頃かな、道路の突き当たりに座らせられて、私たちが見ているとね、母たちが「見るんじゃない、見るんじゃないよ」と家の中に追い払うわけなの。「東京でパンパン(銃撃戦)やっしたんだろう」と言ったら「やらないやらない」て言うのよ(『習志野騎兵連隊とその周辺』)
 
 こういう形で地域の自警団へ配給されました。では自警団はそれをどうしたか、本郷新氏の証言。

 ――それこそ猟銃持ち出して撃ったりしてね。手足も縛っちゃうんだからかわいそうだったね。船橋の松島という所の土工現場にいたんだって。殺気だっていたから聞き入れられなかった。結局みんなで何としても殺してしまわなければ。アイゴー、アイゴーと泣いていた。1人殺すのに1人を見させるんだから随分残酷なもんだ。みんなの中で言われないで来たでしょう。だって、あたりさわりのない方がいいからね。まして敗戦後朝鮮そのものがね......。下手にしゃべるとおかしなことになってしまう(『習志野騎兵連隊とその周辺』)
 
 「記憶は間違いや真実の美化、さらに資料操作がある」という人もいて、証言が100パーセント信用できるかどうかは疑問です。しかし、習志野の先生方による事実発掘の中に衝撃的な資料が出ています。それは高津村のある人の震災日記です。大正12年9月1日から始まっています。日記はその日に起きたことをその日に書くのでもっとも真実に近い、日記は一番事実を正確に、しかもリアルに伝える1次資料と思います。そこに書かれているのは、

 ――8日また鮮人をもらいに行く。9時頃に至り2人もらい、都合5人。ナギノハラ(これはカンノン寺の裏にある共同墓地をさす)の墓場にある場所に穴を掘り、座らせて首を切ることに決定。第一番はクニミツ、スパリと見事に首が切れた。第2番ケイジ、ポクリとこれは半ばしか切れず。第3番コウジ、首の皮が少し残った。第4番ミツオ、クニミツの切った刀で見事にコロリといった。第5番ヨシノスケ、力足らず半ばしか切れず、2太刀穴の中に入れて埋めてしまう。みんな疲れたらしくそこに眠ておる。夜になるとまた各持ち場の警戒所につく
 
 首を落とすのは腕の善し悪しではなく、刀の切れ味の善し悪しだと書いています。これは先の証言がウソでないことを示しています。この虐殺は、「鮮人問題に関する協定」の伏せ字部分にあたるものに思えてなりません。
 9月6日以降、警察が雑魚扱いして放免していた日本人社会主義者の再逮捕を含む1網打尽の検挙もその流れの一つで、「8日、労連社と農村運動同盟とは全部検挙された。此の日東京各地では一斉に検挙が始まったのだ。そしてたいていは皆10月1日迄留め置かれたようだ。留置場に於ける又は獄中に於ける当時の奴等が暴虐と残虐は実に筆舌に尽くし難いものがある。或る者は4度気絶し、或る者は全身紫色に腫れ上がり・・・・」という主義者への虐待迫害の再開もその1環でした。軍・警の振る舞い、さらに中国人留学生王希天氏(在日中国人のリーダー)が「排日の巨頭」とか「中国人虐殺の調査をした」という理由で11名の習志野送りのメンバーからはずされ、「陸軍側にて之を連れ出し何れかに葬り去られた」事件や、甘粕大尉による大杉虐殺事件を重ねたとき、戒厳令のドサクサで法律の形を取らずに社会主義者抹殺の好機とした軍・警のほこ先が、朝鮮人「主義者」に向けられないはずがありません。かくして大久保村8名の刺殺を皮切りに、習志野収容所は朝鮮人「主義者」をつかみだす格好の密室となったのです。
 戒厳令は依然として継続され、とくに9月6日以降は法的に疑問のあった点も「今回の震災ハ事変ニ因ル戒厳ト看做シ、且ソノ戒厳地境ハ臨戦地境ト看做シ、陸海軍ニ関スル諸法規ノ適応ヲ為スヲ得ルコトト致度」と決定しています。軍部はあらゆる行為について超法規的免罪符を手に入れたのです。

■排外主義のはての悲劇

 殺された人々の墓があちこちに残っていますが、「犠牲者の墓」とかアイマイにしか処理されていません。
 どれだけの人が「思想」を問われて処刑されたかは正確に分かりませんが、「1連隊30人位」が4連隊あれば、それだけでも120名です。その他「手に余った一部」は「暴れてしようがない人間の屑」として付近の自警団に払下げられています。「10月の涼しくなる」まで数回の払下げや、各連隊での適当処分が先の日時を追った収容者の逓減と符号することから、収容者の1割、300人には達しているのではないかと思われます。こう見ると、兵営内で機関銃の標的にしたとの話も根拠のないことではありません。
 なぜ収容所周辺が朝鮮人の命の捨て場になったか不明な点は多いのですが、震災下の民族迫害がイデオロギー抹殺にまで及び、無数の社会主義者、大杉栄、王希天殺害事件が発生したことは間違いありません。民衆を共犯者に仕立てたのは、軍隊が鳴りもの入りで「鮮人襲来」を吹聴し、銃まで貸与して作らせた自警団に「武勲」の一つも立てさせずに「鮮人襲来」はウソだったとは言えなかったし、自警団は収容所開設をおそらく嫌悪の念でながめたでしょう。収容所の周囲には「鮮人警戒」の自警団が武器を持ってうろつき、「殺せといっておきながら、いまさら保護とは何事か」とすごむ輩もいたことでしょう。双方の思惑が「朝鮮人をくれてやる」「取りにこい」「ご奉公のつもりで」と軍民一体の迫害になったのではないでしょうか。日頃より兵営の周囲では蔬菜納入、糞尿汲取など両者は緊密な関係にあったことが、もたれあいを促進したといえそうです。
 公然たる民族迫害が福田村のごく近くで起こっていたのです。戦争さながらの殺しあいの情報は、当然福田村の自警団にも伝達されていたでしょう。危急を告げる半鐘も打ち鳴らされたでしょう。福田村や田中村の人たちも習志野と同じく異様な雰囲気でした。殺気だった状況をさらに促進したのは、千葉県が9月4日に出した通諜です。

 ――災害に伴う種々なる流言庇護至る所に行なわれ、なかんづく鮮人に対しては人心すこぶる高潮に達せるやの傾向之有候、この方面に対しては軍隊の出動と相まちて万遺策なき手配之有候条、青年団、消防組員、その他の団体に於いて軽挙妄動之なきよう厳重注意せらるべく此段通牒候也
 
 自警団が軽挙妄動してはいけないと注意書きの形をとっていますが、朝鮮人の流言蜚語は否定していません。人心が高潮したことを認めているから、朝鮮人が暴動を犯したというデマを否定した文書ではありません。ただ「お前たちが直接やることについては軽挙妄動するなよ」というだけです。
 更に警告、そして「本県に於いて不穏なる行動を為す者に対する警戒は軍隊と協力して充分に行き届きおり、不逞なるものの立ち回りなき筈につき、徒に流言蜚語に惑わされず軽挙妄動なきよう注意せられたし」との文書が出ています。他方、習志野収容所周辺では、民衆や軍隊による人殺しが公然と行なわれていました。福田村・田中村は当然これに影響されました。日本の震災研究では、朝鮮人虐殺と中国人虐殺、あるいは琉球人虐殺、東北人虐殺、あるいは間違えて殺された日本人、これらが混同されています。何百人も殺された、思想調査も行なわれた、だけどそれらを日本の民族排外心理一般にすり替えてはいけません。何故なら、朝鮮人が殺されたのには殺された大状況があります。「朝鮮人が暴動を起こした」との流言から、日本民族は朝鮮人憎しに結集しました。国家権力が中国人や琉球人を警戒する理由はありませんでした。自警団も中国人や琉球人と朝鮮人との区別ができませんでした。中国人、琉球人の問題は副次的な問題だと思います。それを一緒にすると朝鮮人虐殺の意味がそがれます。主敵は朝鮮人だったのです。当時日本の排外主義に民衆も含まれていました。そういう中でこの事件が起こったのです。

■歴史の教訓から学ぶ

 最後に、この事件後日本がどうなったかということです。確かに朝鮮人の首はたくさん取ったでしょうが、その代償として失ったものは何か。当時、日本は大正デモクラシーの時代でした。日本政府は社会主義運動を押さえるため、過激主義取締法案を当時の議会に何回も出しましたが、デモクラシーの風潮でたびたび廃案になりました。ところが関東大震災で戒厳令が布かれると法案への批判は消え、過激主義防止法案は震災直後の国会で成立してしまいます。これがそのまま治安維持法にすり変わるのです。
 「他民族を圧迫する民族に自民族の自由はない」という言葉どうりになりました。この問題は朝鮮民族解放運動史と密接に結びついていますが、同時に痛恨の日本史の1ページでもあります。
 20世紀までは帝国主義の時代で民族同士の支配・被支配の時代でしたが、21世紀は互恵平等の時代です。過去にどんなことがあったのか、過去にフタをしてはいけません。過去に目をつむるものは未来が見えません。歴史学は過去に学び、現在を見つめ、未来を予測する未来学です。歴史の教訓はそこにあります。


姜徳相(かんとくさん)
1932年韓国生まれ。2歳の時渡日。早稲田大学文学部卒業。明治大学講師、1ツ橋大学教授を経て現在、滋賀県立大学教授。専攻は朝鮮近現代史、日韓関係史。
編著書/現代史資料『関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)、現代史|資料『朝鮮』(みすず書房)、『教科書に書かれた朝鮮』(講談社)、『関東大震災』(中央公論)、『朝鮮独立運動の群像』(青木書店)、『朝鮮人学徒出陣』(岩波書店)、その他

*以上は、『歴史の闇にいま光が当たる福田村事件の真相』(千葉福田村事件真相調査会/香川人権研究所/2001年3月1日)から。

[保存会から]
姜徳相さんは2021年6月12日、悪性リンパ腫で死去されました。89歳でした。

参考:中日新聞
2020年9月25日16時00分(6月14日16時10分更新)
連載・コラムあの人に迫る
姜徳相 滋賀県立大名誉教授・歴史学者 
https://www.chunichi.co.jp/article/126645


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