冊子『福田村事件・Ⅱ』 その4 山田昭次「関東大震災と自警団」

『別冊スティグマ第15号』(2003年3月20日発行)
編集:『別冊スティグマ』編集委員会
発行:社団法人千葉県人権啓発センター
『福田村事件・Ⅱ―80年を経て高まる関心』 その4

本稿は2002年9月14日「福田村事件を心に刻む会総会」の記念講演として行われたものを採録したものであり、文責は別冊スティグマ編集部にあります。


講演錄

関東大震災と自警団

山田昭次(立教大学名誉教授)



■朝鮮人虐殺事件と自警団

 私が関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の研究を始めたのは、1980年代初めぐらいで、もう20年これでやっています。それでもなかなかまとまりがつかないのですが。
 今、司会の方からお話がありましたように私に与えられたテーマは、自警団の問題です。自警団というのは複雑でわかりにくいことが沢山あるのですけれども、2つの面から自警団について話をしてみようと思います。
 1つはこの自警団が日本の国家によって負わされた役割は何だったのかということです。日本の国家の治安当局の中枢部が朝鮮人の暴行が事実であるという認定をして、全国にこれに対処せよという指令を流すんです。その決断を下したのが1923年(大正12)年9月2日です。その指令に基づいて、各府県が県内に指令を流しますが、その結果、埼玉県では9月3日あたりから自警団がこしらえられる。民衆はその国家が流したデマを真に受けて、朝鮮人を沢山殺してしまった。虐殺の役割も背負わされたわけです。ところが、9月5日になっても暴動を起こした証拠が見つからないものですから、日本の官憲は、今さら朝鮮人が暴動を起こしてないというわけには、いかないでしょう。もう殺しちゃってますから。正直に言えば、自分たちが責任を取らなくてはいけない。それで朝鮮人が暴動を起こしたっていう事にしようと、決定しました。ずいぶん乱暴なことをしたのです。しかしそれだけでは国際的な批判に耐えられないので、直接の下手人に刑罰を科することで何か国家の責任を果たしたような格好をつくろうとして、自分の責任は棚上げして、自警団を裁判にかけて処罰するということを決めました。自警団は国家によってやりたい放題の事をやられた人間であるともいえると思います。国家というのは、本当に困ったものですよね。なくても困るし、あっても困るし、本当に厄介な相手だなあと思うんですけれども、その姿というのが関東大震災のときにはっきり出ているわけです。
 ただ問題は、自警団というのは、国家に振り回された単純な被害者かというと、そうとも言えないわけです。これから話しますように、例えば群馬県の藤岡で起こった事件、埼玉県の本庄で起こった事件では、自警団は警察に収容された朝鮮人を殺すために、警察官を追っ払ってまで殺しちゃう。非常にむちゃくちゃなことをやるわけです。
 藤岡事件の判決文などにも記されていますけれども凄いんですよね。朝鮮人を保護する警察官は社会主義者だと怒鳴って警察官追っ払い、朝鮮人を殺しちゃう。それほどの積極性を一面では、自警団が持っていた。それでこれは単純に被害者とも言い切れない。非常に複雑です。積極的に朝鮮人を虐殺したのには、彼らなりの内的根拠があるわけですね。だからその両面、国家に負わされた役割とその役割を国家が期待した以上に積極的に背負った意識、思想は何だったのか。この2つの面からお話してみようと思います。
 しかし、わからないことが沢山あります。どれほどわからないかというと、何しろ自警団の数もよくわからないですよ。
 吉川光貞さんの『関東大震災の治安回顧』によると、1923年10月の下旬に、関東一円に3689の自警団ができていたのですけど、自警団が出来たのは、関東だけではございません。これはあんまりご存じない方が多いと思いますが、東北あたりでも、東北線に乗って「不逞鮮人」がやってくるって大騒ぎになったんです。いつ「不逞鮮人」が現れるかと仙台の駅辺りは大騒ぎになってたんです。仙台辺りでも自警団なんかできますからね。関東以外まで含めないと、自警団の数は全部出てこないんだけど、今となっては調べようがない。わからないことが沢山あります。わかる範囲の事しか話せませんので、そういう限界があるということはご了承ください。

■「警察の下請け」として設立

 まず、日本国家によって負わされた自警団の役割からお話いたします。関東大震災が起こって以来、自警団がわっと白紙状態から出来たという代物ではありません。この点は早稲田大学の先生の大日方純夫さんとか、在日朝鮮人運動史研究会の私の仲間である樋口雄一さんなどが、研究されてきたわけですが、この人達の研究成果によれば、自警団の前身になるものがすでに1920年前後から作られていたわけです。その名称は、保安組合とか、安全組合とか、警察後援会など、地域によってかなりちがいがあります。
 その方針を打ち出したのは日本国家の治安当局、具体的には警察であって、そのスローガンは「警察の民衆化と民衆の警察化」ということなんです。警察はただ威張っていちゃだめだと、民衆が生活に困ったら、相談にも乗ってやれ、しかしそれと引き換えに民衆を警察の側にひきづりこもう、つまり民衆を警察の支持者にしようというのがその狙いであったのです。
 何故そんなことが起こったかといいますと、ずっと遡りますが、日露戦争講和後の「日比谷焼き討ち事件」まで遡るんです。そのときは民衆が怒って、交番なんか焼き討ちしてしまったんです。その苦い経験がある。しかし最も近いところだと、1918年の米騒動です。この時も警察は憎まれて襲われたのです。だから、どうしても民衆を支持者に引き入れないと警察はもたないわけです。
 それからもう1つ、世界的にいうと、1917年にロシア革命が起きます。日本の治安当局者は、何故ロシア革命が成功したのかといえば、民衆から警察が孤立してたからだというふうに、見たわけです。それと米騒動と、遡れば日比谷焼き討ち事件が重なって、このままでは大変だと、何とか民衆を警察のほうへ引きずり込まなきゃいかんということになったのです。
 それで安全組合とか、保安組合などが警察指導で、町や村の有力者を媒介にして、作られてくるわけです。たとえば埼玉県神根村(現・川口市)保安組合の規約には「自衛的精神によって警察と協力する」ということが謳われています。どういう人が幹部になるかといえば、組合長は村長さん。それから部長は区長(大字の責任者)ないしは区長代理、それから消防組頭、在郷軍人分会長、青年団長等々です。いわば村の有力者です。
 それから、組合と警察との関係が規約にはっきり示されています。組合を組織するときは、規約は必ず警察に提出する、改正する時は、警察にちゃんと届けを書くんです。規約を見ますと、どこも大体同じようなものです。たぶん警察のほうに雛形があって、それを町や村によってちょっと変えた程度だと思います。それから組合員が、警察に対してどういう義務を負うかというと、被害は必ず届け出るとか、警察官がやってくるまでは、犯罪の証拠品は必ず保存するとか、犯人の人相、身元、行き先、などは警察官にすぐに報告するとか、警察官への犯人逮捕への協力などが義務付けられているわけなのです。
 はっきり言えば保安組合は警察の下請けなんです。村や町が組織ぐるみで警察の下請けをするというのが、「警察の民衆化と民衆の警察化」ということの内容です。

 保安組合の一例として埼玉県神根村(現川口市内)保安組合規約を紹介する。この規約第3条は、組合の目的を「本組合ハ組合員ノ自衛的精神ニヨリ警察官卜協力シテ村内ノ安寧ヲ保持シ犯罪ヲ未然ニ防過スルヲ以テ目的トス」と規定する。つまり自警しつつ警察に協力することが目的である。第5条によると、組合長は村長、部長は区長、区長代理、消防組頭、在郷軍人分会長、青年団長、評議員は村会議員その他となっている第8条によると、組合を組織すると、組合長は規約写を添えて所轄警察署に届けることになっており、規約を改正した時も同様とされている。組合員の遵守事項中には、犯罪とそれによる被害の届け出、警官の臨検までの犯罪の証拠品の保存、犯人の人相・着衣・行き先の警官への即報、警官の犯人逮捕への協力がある。(川口市編・刊『川口市史近代資料編1』1983年300〜303頁)。村の有力者たちを媒介にして警察署に対する村民の緊密な協力体制の樹立が意図されていた。

■「先進地」だった千葉県

 千葉県ではどうだったかというと、千葉県はこの『民衆の警察化』が非常に進んだ県だったようですね。『千葉県警察史』で大変誇らしげに書いておりますが、千葉県では1922年から警察展覧会というのが開かれています。警察はこんなにがんばって犯罪捜査をやったと、展覧会形式で宣伝活動をする。それから千葉県下には当時警察署が29あったのですが、1923年から毎年、春、秋に国民警察日という行事があったんです。趣旨は、大正デモクラシーの時代だから、警察は国民のためにあるっていうことを宣伝しようっていうことなんですよ。そうやって民衆の支持を仰いでいたわけです。この時期には、ポスターだのビラだの講演会だのいろんなことが行われていたわけです。
 千葉県の安達警察部長が、1923年の4月、関東大震災の虐殺が起こるすこし前ですが、民衆の警察化の趣旨とその進展状況を説明をしてるわけですよ。世の中複雑になってきたから少数の警察官だけでは、到底治安が保てないと、だから大いに民衆警察を鼓吹して、県民が自ら守るという観念を呼び起こさなければならない。だからわれわれは民衆と警察がいろんな面で提携できるように宣伝しておるんだというふうに講演をしています。この安達警察部長の話によりますと、1923年の4月には、千葉県の保安組合の組合員数は、18万何千人です。大震災の虐殺が起こる前に、千葉県の民衆が保安組合にかなり吸収されていたのです。
 これはきっと皆さんご覧になっていると思っていますが、「柏市史編纂委員会」で出された『柏市史近代編』には、松戸の警察署管内では、関東大震災の頃は、大字を単位とする保安組合の組織化が進んでいたと書かれています。だから、治安当局が朝鮮人が暴動を起こしたといえば、それにすぐ反応できるような体制の母体というのが、すでにかなり広範囲に作られていたというわけです。いきなり自警団を作れと言われても何していいかわかんないのだけど、その母体になっているモデルは、もう大体青年団とか在郷軍人とか消防団とか出来てたわけですから。その保安組合は武器を持っていいということはなかったのですけれども、それに武器を持たせれば、自警団になるんです。朝鮮人虐殺事件を理解するには、そのような状況を踏まえておく必要があるわけです。
 歴史はある日突然起こるっていうことはないわけです。気づかないように歴史が変わっているとき、我々は注意しなくてはならない。それは現代の問題だってそうです。僕は明日、朝鮮戦争が起こっても「突然」じゃないと思っています。日本人が気が付いていないだけです。

千葉県では県内各地の警察署で1922年から警察展覧会が開かれた。1923年から毎年春秋の2回、県下29警察署で5日間の「国民警察日」の行事が行なわれた。この日にはポスター、ビラ、講演などで警察の宣伝がなされた(千葉県警察史編さん委員会編『千葉県警察史』第1巻、千葉県警察本部、1981年、818~828頁)。

 このような行事を行う趣旨を千葉県安達警察部長は1923年4月に次のように説明した。「世界の大勢に伴いまして近時世の中がいろいろ複雑になって参りまして仲々斯かる少数の警察官のみを以て治安の保持は難いのであります。故に大に民衆警察を鼓吹し県民の自警自衛の感念を喚起しなければならぬと思うのであります。そこで我々は種々なる方法を以て警察と民衆の提携を為すべく大いに努力宣伝して居るのであります。」(『警察協会雑誌』第275号、1923年5月)

■デマは警察官から

 それでいつごろから、日本の国家が朝鮮人の暴動の話を言ってきて自警団の設立を強引にやったのかということですが、出発点を見ますと、東京では個々の警察官や個々の警察署が9月1日の夕方ぐらいから朝鮮人が暴動を起こしたと警察官が走り回っていました。こう言ってもなかなか信じてくださらない方が大勢いらっしゃるのですが、本当です。どこへ行っても、そんな警察がデマを言ったかねえと、相当左翼っぽい人でも信用してくれない。けれどもこれは、実証的に説明できることです。
 幸い、この事件についての小学校生徒の作文が遺っております。小学生は嘘はつかないだろうと思うんです。
 東京市麻生区本村尋常小学校1年生の西村喜世子の作文には「(9月1日の)夕方になったら○○○○(と、伏せ字になっておりますが、これは「不逞鮮人」です)が攻めてくるからとお巡りさんが言いにきました」と書いてあります。
 次は、京橋区の京橋高等小学校の鈴木喜四郎の作文。当時の小学校制度をご存じない方もいると思うのですが、当時は6年生の上に高等科というのが2年間あって、それを高等小学校といいました。この子は高等小学校生で、年はさっきの子より大分上です。「(9月1日)日は西に傾いた。今晩は、○○○(不逞鮮)人の 襲撃があるという噂がぱっとたつと巡査が、『今晩は ○○○(不逞鮮)人の夜襲がありますから気をつけて ください』と叫びながらまわって歩いた」と書いてあ ります。
 それから、有名な寺田寅彦の震災日記には、9月2 日に逃げてきた親戚が、ゆうべ上野に露宿していたら、 警察官が朝鮮人の放火魔がうろちょろしてるから、気 をつけろといったと語ったことが記されています。
 9月の下旬から、10月の末にかけて、自警団の検挙が始まるんですね。そこで自警団の抗議運動がはじ まるわけですが、1923年10月29日付『報知新聞』によると、本郷では、10月25日、本郷小学校で警察に対する抗議運動の準備会をやっています。そのときに曙町の村田という代表が「9月1日夕方、曙町交番巡査が自警団に来て、『各町で不逞鮮人が放火しているから、気をつけろ』と二度まで通知に来た」 と報告してるわけですね。
 それからもう1つ紹介しますと、『東京震災録』に掲載されている入間町(現・狭山市)の軍人会分会長報告には、やはり、9月1日午後7時頃警察署は警鐘を乱打して、警察官は和服に日本刀を帯びて自転車に乗じて、爆弾とか凶器を持って朝鮮人が町に11名が来て、1名捕まったと、そのものは6連発短銃砲をもっているから明かりを消して戸締まりをせよと警告を発したと書いてあります。
 ただこれは中央の指令に基づいたものではない。指令がなくても警察が動くというところが問題です。「朝鮮人というのは危ない連中」という観念が警察官の頭の中に入っているわけですから、上からの指令がなくてもぱーっと暴走してしまうのです。

■9月2日、中央からデマが流れた

 では、中央がいつ行動を起こしたかというと、私はさっき話したように9月2日であると思います。その証拠があるんです。
 9月3日午前8時15分に海軍の船橋送信所から内務省警保局長の電文が呉鎮守府副官経由で全国の地方長官に宛てて送られました。

 9月3日、船橋送信所打電內務省警保局長電文
〇吳鎮副官宛打電 9月3日午前8時15分了解
 各地方長官宛内務省警保局長 出
 東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニ於テ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ、既ニ東京府下21部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ充分周密ナル視察ヲ加へ、鮮人ノ行動ニ対シテ厳密ナル取締ヲ加ヘラレタシ。
 
 その趣旨だけ言いますと、東京府下で朝鮮人が震災を利用して火を放ったり色々悪いことをしている。石油を注いで放火する者もある。そこで、東京の一部には既に戒厳令を施行した。そんな事態だから、各地方でも朝鮮人を厳しく取り締まれという内容です。
 電文を打ったのは3日ですが、その電報の欄外にあとでメモとして記入されたものでは「この電報は伝騎により持たせやりしは2日の午後と記憶す」とあります。伝騎というのは騎兵の伝令です。警察の親玉の電文を持って馬でパカパカパカパカ船橋まで届けに行った。この記録から見て、日本の国家の中枢部が、朝鮮人が暴動を起こした認定をしたのは2日でしょう。
 もう1つの証拠があります。埼玉県の内務部長香坂昌康が、県下の郡町村長に通知を出すんです。これが9月2日。要するに東京においては不逞鮮人が、日本人の社会主義者と一緒に悪いことをやっていると、だからそれが埼玉県にも及ぶだろうから、それぞれ町村の当局者は、在郷軍人分会、消防団、青年団と一致協力して、対策を講ぜよという指令を流すわけです。これは、県の内務部長が勝手にやったのかというと、そうではない。これは、永井柳太郎という国会議員がこの年の12月15日の衆議院本会議の質問演説で、さっき言った船橋から打った内務省警保局長の電文と、埼玉県内務部長の通知を暴露しているんです。

9月2日、埼玉県内務部長香坂昌康の県下郡町村への移牒
庶發第8号 大正十2年9月2日
埼玉県内務部長
郡町村長宛
今回ノ震災ニ対(際)シ、東京ニ於テ不逞鮮人ノ妄動有之、又過激思想ヲ有スル徒ラニ和シ、以ッテ彼等ノ目的ヲ達セントスル趣及聞、漸次其ノ毒手ヲ振ハントスルヤノ惧有之候ニ付テハ、此ノ際町村当局者ハ、在郷軍人分会・消防隊・青年団等ハ一致協力シテ其ノ警戒ニ任ジ、一朝有事ノ場合ハ、速カニ適当ノ方策ヲ講ズル様至急御手配相成度、右其筋ノ來牒ニヨリ、此段及移喉候也。
(吉野作造「朝鮮人虐殺事件」、東京大学法学部明治新聞雜誌文庫內吉野文庫所藏)
 
  何故香坂がこれを通知したかというと、丁度9月2日に埼玉県の地方課長が内務省へ行って打ち合わせをして帰ってきて、その報告を聞いてこの電文を郡役所経由で町村に流したわけです。つまり香坂昌康が自分の独断であわてて通知をしたというわけではなく、ちゃんと内務省の指令に基づいてやっていたわけですよ。このために9月3日には県下いっせいに自警団が出来る。
 最近、埼玉県で起こった虐殺6事件の判決書を第1審から控訴審、上告審に至るまで全部入手できました。これはなかなか見せてもらえないので、諦めていたのだけれど、被告の名前だけは伏せて、見せてもらいました。それでこの6事件の判決書には、埼玉県で自警団を作った直接のきっかけは、埼玉県内務部長の通知だとちゃんと書かれています。ただし、それが中央の指令に基づくとは、書いてありません。そこはごまかしてあるんですが、これは重大なことなんです。
 どこから最初にデマが流れてきたかというのは、今までの研究では、はっきりしません。おそらく最終的にもはっきりしないと思います。今までの研究では、民衆から出た説と官憲から出た説、それと、民衆と官憲の両方から同時多発的に出たという説があります。でも、どの説をとろうと、民衆からだけ出たデマならば、これほど多くの人達が信じなかったのではないかと思います。お上がいいだしたから、デマが広く信られたのです。大正デモクラシーといっても民主化はほんの表層ですよ。日清戦争・日露戦争・朝鮮併合を通じて形成された日本の国家主義意識というのは大正デモクラシーなんかで揺らぐようなものではない。
 お上の言うことは絶対でした。私なんかが子供の頃、母親が言う事聞かないとお巡りさんが来るよという。そうするとシュンとおとなしくなる。そういう記憶があります。今のお巡りさんとは違い、お巡りさんは大いに信用されていた。吉野作造も「警察官の言ったことだから大いに信頼された」という意味のことを書いています。
 デマがお上の権威付きで流されるわけですから、本気で朝鮮人を殺すということになる。最初どこからデマが流れ出そうと、この国家責任の重大さは許容できない。

■暴動の事実が出て来ぬ中で

 警保局は不逞鮮人が暴動を起こしたと認定してみたんだけど、証拠があがってこないんです。当時の軍隊の報告書で、品川の方で朝鮮人が暴れたというから、行ってみたけど何もなかったといったことが書かれています。それで官憲も困っちゃったわけです。
 9月5日、臨時震災救護警備事務局にいろんな方面のお役人が集まってとんでもないことを決めました。「第一 内外に対し各方面官憲は鮮人問題に対しては、左記事項を事実の真相として宣伝に努め、将来これを事実の真相とすること。(中略)朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事例は多少ありたるも、今日は全然危険なし」。
 実は全然暴動を起こしたりしていなかったけど、なかったとは言えない。なかったといったら自分が腹を切らなきゃならなくなる。それで「多少ありたるも」と書いた。しかし益々朝鮮人虐殺が進行して国際問題になったら日本政府が不利になる。このあたりで止めなけれはいけない。そこで、暴行は多少有りたるも今は静かになったというわけです。
 それで次が凄いです。「第二 朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、肯定に努むること」。

 第一 内外に対し各方面官憲は鮮人問題に対しては、左記事項を事実の真相として宣伝の努め、将来これを事実の真相とすること。(中略)
 朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事例は多少ありたるも、今日は全然危険なし。しかして一般鮮人は皆極めて平穏純良なり。(中略)
第二 朝鮮人の暴行または暴行せむとしたる事実を極力捜査し、肯定に努むること。尚、左記事項に努むること。
 イ、風説を徹底的に取調べ、これを事実として出来うる限り肯定に努むること。
 ロ、風説宣伝の根拠を充分取調ぶること。」
(姜徳相、琴乗洞編『現代史資料6関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年、80頁)
 
  つまりこれから朝鮮人が暴行したことを探しましょうというわけです。それで出来る限り、暴行があった、あったと言い張れと。そのために風説、すなわちデマを徹底的に取り調べ、それを事実だと、出来る限り本当だと言い張れと書いてある。だけどあんまりいい加減だと嘘がばれてしまうから、もっともらしい根拠をつけなくてはいけない。こんなとんでもないことを日本の国家は9月5日に決めたんですよ。必ずしも日本の国家ばかりではなく、国家というものはそもそもどうしようもないものです。
 で、とにかく朝鮮人が暴動を起こしたということにして、自分たちは責任を逃れようとするわけです。
 その結果、10月20日に朝鮮人が犯罪を起こしたというデマを司法省が発表するわけです。その日は、日本人が朝鮮人を殺したという記事を新聞に載せてもいいと許可した日です。それまでは、日本人が朝鮮人を殺したという記事は、新聞に載せさせなかったのです。しかしいつまで黙ってたってわかってしまい、かえって政府に不利だっていうんで、10月20日に記事解禁に踏み切るわけです。ただし、朝鮮人も暴動を起こしたのだという官製デマをつけたのです。そうなれば、朝鮮人は殺されてもしょうがないという正当化が出来ます。

 10月20日の司法省の説明
「今其筋の調査した所によれば、一般鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞の輩があって幾多の犯罪を敢行し、其事実宣伝せれるるに至った結果変災に因って人心不安の折から恐怖と興奮の極、往々にして無幸の鮮人、または内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加へた事犯を生じた...」
(『国民新聞』12月21日)

■「暴動」の実態は

 司法省調査による関東大震災朝鮮人の「震災後に於ける刑事事犯及之に関聯する事項調査書」というのがあります。これをわかりやすく整理した第1表によって報告いたします。表は5つの欄に分かれており、①は流言蜚語、放火、脅迫、強姦とか、おどろおどろしい犯罪が沢山あります。この件数が20件で、人数はよくわからないんですが、大体85~86名です。けれども容疑者の氏名もわからない状態でこれが証拠になるかと言うと、ならない。
 それで②は、20〜30名の一団で強盗をやったと言うことですが、1名を除いて氏名不明。ただし、氏名判明者も現在は所在が不明。一体、これが犯罪の証拠になるのか。今どこにいるのかわからない人間に罪をかぶせているだけです。
 ③は、容疑者の名前はわかるが、所在がわからない、死んだ、逃げたという人間の合計が、約119人から120人。①から③にあげられた全部の犯罪者の数が138~139人。犯罪者として確証がない人の合計が全体の85%なんですよ。この発表がでたらめだっていうことは、それが発表された直後に弁護士の布施辰治という人が批判をしている。また、今から20年ほど前に姜徳相という先生が、『関東大震災』(中公新書)という本を書いて、名前もわからないような「犯罪」はでっちあげだと批判しました。
 ただこの表に④の欄と⑤の欄というのがあります。それについて批判した人間がいないんです。では事件を起こしたと見られる容疑者で、その表に3名と書いてありますが、みな警察で取調べ中、予審中、公判中なんです。裁判が終わり、刑が確定しないうちは、容疑者であって犯罪者じゃない。これは法の常識のはずです。それを犯罪人として書いてある。司法省がそうしたことをやっているのだから、どうしようもないですね。
 しかも私は大変な発見をしました。東京朝日新聞によると呉海模、(朝鮮語でオヘモ)という人が、ダイナマイトを持っていて捕まって、暴動を起こそうとしたのではないかと起訴されたわけですが、東京地裁で11月3日に懲役1年の判決を受けています。爆弾は持っていたけど、人に危害を加える意志があるかどうか、その点は証拠不十分だったのでその点は却下したんです。だから単なる爆発物取締規則違反だけで、懲役1年。これだけでは暴動を起こそうとしたかははっきりしない。そんなものを何故司法省が犯人に仕立て上げたのか。まったくむちゃくちゃです。
 その次の⑤なのですが、窃盗、横領、賊物運搬となっていますが、要するにこそ泥です。これが15件で人数が16人。ところがですね、この頃日本人は、もっとたくさんの人間がこういうことをやっているわけです。1923年10月7日付『時事新報』によると、10月4日までに横浜で略奪容疑などで捕まったのが、538人います。その中に窃盗容疑者が391名。もっと後になると1000名とか2000名とか増えていきます。日本人だって何百人もやっているのに、朝鮮人の「犯罪」が問題にされる。窃盗や横領というのは、これは無理からぬと思うんです。震災や火災で食うものや着る物がなくなる。その状況下で持っていきたくなるのは当然です。悪いとばかりは言い切れないと思うんですよね。それで朝鮮人の場合は、わずか16名でしょう。何も目くじら立てることではないし、ましてやそういうこそ泥には、国家に対して暴動を起こすなどという政治性はまったくないわけで、これも朝鮮人暴動の根拠とするにはあまりにもお粗末です。むしろ日本国家は、そこまでして朝鮮人が暴動を起こしたということに仕立て上げようとしたことを示し、滑稽極まりない。今だから滑稽極まりないと言うけれど、当時は多くの日本人は朝鮮人が暴動を起こしたということを信じてしまったわけです。
 やっぱり政府発表というのは冷静にきちっと読まないといけません。
 ④⑤について言及したのはぼくが初めてです。きちっと読みきるまでに司法省発表から80年近くかかっています。変な話ですけど、歴史家も、ありきたりの資料もきちっと読んでいないんです。やはりありきたりの資料をきちっと読むということですね。新しい資料を発見するという必要もあるけれど、ありきたりの資料をきちっと読むと、大変なことが現れてくるのです。

■責任はすべて自警団に

 しかしそれだけでは、日本国家の責任をごまかせないというので、政府は朝鮮人を殺した責任を全部自警団にかぶせようということをやるわけです。こんなことを言うとやはり左翼っぽい人までが、まさか日本の国家といえどもそんなことをするはずがないと言うので、そこで実証的にやりたいと思います。
 ここに『関東戒厳令司令部詳報』というのがあります。これは、お上が書いたんですよ。これによると臨時震災救護事務局警備部司法委員会が、9月11日に自警団を検挙する方針を決定します。
 趣旨をいいますと、関東大震災で朝鮮人に対する傷害事件があり、司法上これを放任することができない。これを糾弾するの必要なるは、閣議において決定したところだというのです(この閣議というのは、ほかの資料を探っても出てこないんですよ。おそらく、どっかに隠したんでしょうね)。
 その後に記された点が面白い。「然れども情状酌量すべき点少なからざるを以って、騒擾に加わりたる全
員を検挙することなく、検挙の範囲を顕著なるもののみに限定すること」と書かれています。つまり朝鮮人の虐殺については同情の余地があるから全員は検挙しないと、最初から決めてしまっているんです。

 一、今回ノ変災ニ際シテ行ハレタル傷害事件ハ、司法上コレヲ放任スルヲ許サズ。コレヲ糾弾スルノ必要ナルハ閣議ニ於テ決定セル処ナリ。シカレドモ情状酌量スベキ点少カラザルヲ以テ、騒擾ニ加ハリタル全員ヲ檢舉スルコトナク、檢舉ノ範囲ヲ顕著ナルモノノミニ限定スルコト。
 一、警察権ニ反抗ノ実アルモノヘ檢舉ハ厳正ナルベキコト。(下略)
(『関東戒厳司令部詳報』第1巻、松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係史料』5巻、日本経済評論社、1997年、154頁)
 
  それからもう一つ面白いのは、「警察権に反抗の実あるものの検挙は厳正なるべき事」。これはね、本庄とか藤岡では、警察に襲撃して、そこにいる朝鮮人を殺しているのだから、警察権に反抗したということです。だから、司法委員会としては、朝鮮人を殺したということについては情状酌量の余地があるからあまり厳しくするな、ただし警察を攻撃したら、勘弁しないというのです。直接に朝鮮人を殺したということはどうでもよくて、お上に反抗したことが最悪のことなんですよ。これが、まさに日本国家権力の姿勢で、朝鮮人の人権なんかどうでもいいんで、お上に反抗することが一番悪いんだということなんです。
 情状酌量と言っていますが、これには事情があるわけです。地元でデマを流したのは、警察の旦那とか郡庁のお役人とか県庁といったお役所です。厳しく検挙すれば、当然、今度は自警団が官権の責任逃れに怒りますよ。
 10月の中旬ぐらいから下旬にかけて、関東自警同盟ができて、警察がデマを流しておいて自分たちを検挙するとはどういうことだという抗議が出てくるわけです。しかも自分たちは、国家の為に働いたんだ、悪いことはしていないというのです。
 それから、私ぐらいの世代の人達だったら、上杉慎吉という憲法学者をご存知かと思います。東京帝国大学教授で天皇絶対主義者なんですが、非常に保守的な天皇論を唱えた人ですが、美濃部達吉と真っ向から対立した人です。この人が、「警察官憲の明答を求む」という談話を10月14日の『国民新聞』に発表しました。言っていることは、関東自警同盟の擁護です。警察が、9月2日、3日あたりにポスターだのメガホンで朝鮮人が暴動を起こしたとわめいて歩いたと、それはもう天下の市民がよく知っていることだ。その責任はいったいどうしてくれるんだというのです。これは官憲も困ったでしょうね。左翼が言うのならまだいいけど、帝大教授で国家主義者の総本山の上杉慎吉が言うのだから、牢屋にぶち込むわけにもいかないし。国家主義者の上杉慎吉が何故こんなことに文句をつけたのかということについては、珍妙な気もしますが、彼は天皇主義者ですけれど、自警団が国家の為に一生懸命朝鮮人を殺したんだと、その功績をどうしてくれるんだというのが、彼のいちばん言いたいところなんですよ。それで、官憲に食ってかかっている。つまり、国家以上に右寄りなのです。
 しかし警察にしてみれば、自分で責任かぶるというのは困る。埼玉県で関東自警同盟が熊谷とか本庄で演説会を開くんですけれども、そうしたら内務省警保局が埼玉県警察部に対して「あいつらが変なことをしたら厳重に取り締まれ」指令を出した。こういうことが、ガンガン暴露されると、政府の方が窮地におちいります。

■裁判の本当の目的

 しかし、そういう危険がありながら何故裁判をやらなければならないのかというと、これは外のことを気にしたんですね。外というのは、1つは欧米系の諸外国に国際的な非難を受けることです。もうひとつは、植民地支配を受ける朝鮮人から文句が出る。これは何とか回避しなければいけない。
 政府が外を気にした証拠を挙げると、9月5日に内閣が告諭第2号を出して、もうあまり朝鮮人を殺すなということを言うんです。何故殺すなというと、朝鮮人を同化する上でも、それから諸外国に知られて、決していい事ではないというのです。つまり、外を気にしている。特に日本は欧米に対して弱いですから、そこから文句を言われると困る。
 事実、危なくそんなふうなことが起こっているんですね。これは、11月25日の『東京朝日新聞』に載っていますけれども、これは11月のことです。アメリカの鮮友協会(これは訳語で本当はフレンドシップ・オブ・コリアというんです)、がアメリカの国務省長官に対して、日本当局黙認のもとに朝鮮人が500人虐殺されたと報告したわけです。500人どころではなく、何千人も殺されたんですが。そうしたら在米日本大使館が、それを公式に否定して、確かに200〜300人朝鮮人は殺されたけれども、ちゃんと550人が裁判に付されたと声明を発表しています。そういう形で日本政府は責任を果たしたと言っています。インチキ裁判で法治国家としての外形をつくったのです。
 だから上杉慎吉が、また怒って何故外国のために裁判をやるのかという論説を、『いばらぎ』とか『参陽新報』という新聞に書いています。東京帝国大学教授なので、裁判の裏がよくわかっていたのでしょう。そういう性格の裁判です。

■裁かれたのは官憲への襲撃

 裁判の結果がどうだったかというと、10月ぐらいから裁判が行われていますが、藤岡事件はじめ大変苦労して、第1審から最高裁の判決までやっとたどり着きました。これは、事細かに分析すると、大変に時間がかかります。それだけで何時間かかかってしまいますから、ごく大ざっぱにお話をします。
 まずは警察署または、警察のトラックを襲撃して朝鮮人を虐殺した事件についてですが、その代表的なのが藤岡事件と本庄事件です。本庄事件は、9月の4日、5日に本庄警察署に収容されていた朝鮮人を虐殺するわけですが、9月6日になって署長を殺せと、警察署に殴りこんだ事件です。神保原事件というのは、本庄警察署が9月4日群馬県の方に朝鮮人をトラックに載せて、行こうとしたけれども、群馬県側は引き取りたくないと断られたので、また本庄署に戻ってこようとした。戻ってきたところ2台のトラックが神保原村(現・上里村)の自警団に止められて、警察官は石を投げられて追い払い、残った朝鮮人はバッタバッタと殺された事件です。それから寄居事件というのがあります。寄居には警察の分署があって、寄居周辺の村の自警団が、9月5日に殴り込みをかけると、1人の朝鮮人が危ないと思って、自分の方から警察に保護願いを出して、自分から警察に入って、留置所にいたんです。その朝鮮人を警察官を追い払った上で、留置所から引っ張り出してなぶり殺してしまうんです。
 警察署襲撃型朝鮮人虐殺事件で最も典型的なのが藤岡事件です。自警団は9月5日、6日と2日にわたって殴りこみをかけたんですが、5日は朝鮮人を16人も殺しているんです。6日は、警察の内部に入って、1人の朝鮮人も殺すんですが、警察の器具は壊すは、帳簿は焼いてしまうはの滅茶苦茶をやりました。それで警察ではどうしようもなくて、高崎の連隊がやってきてやっと鎮圧したという事件です。本庄事件は、警察署で朝鮮人を殺した上に自警団が署長を殺せということで殴り込みをかけ、ちょうど金沢師団が、東京に来る途中に来ていたので、その1部隊が、警察へ行って、銃を向けると自警団が逃げたという事件です。
 そのなかで、裁判を受けたものの実刑率は、第2表によると藤岡事件は67.6%、本庄事件は46.9%、神保原事件は21.2%、寄居事件は、23.1%です。実刑の重い刑になりますと、懲役3~5年。普通は、半年~1年半位のものです。
ところが警察を襲撃しないで、ただの朝鮮人虐殺だと、例えば熊谷事件がそれで、熊谷の周辺から熊谷の中心部に行く過程で、散発的に朝鮮人が自警団に取り囲まれて、次から次へと殺されてしまったという事件です。警察は介入しないわけです。それから、片柳事件というのがあって、被害者は1名。片柳村(現・さいたま市)の自警団に捕まって殺されたという事件です。
 これらの事件の実刑率は、熊谷事件は8.6%、片柳事件は実刑判決を受けたものは1人もいないんです。ちがいは歴然としているでしょう。警察を襲撃した場合とそういうことなしに朝鮮人をただ殺した場合では、実刑判決の比率が全然違ってくるんです。
 だから警察襲撃は非常に重大視して、徹底的に実刑判決を下しますが、ただ朝鮮人を殺した場合は非常に甘いです。これと対照なのは、日本人虐殺事件です。これは妻沼事件というんですが、被害者は秋田県の書年で、鉱山で働いていたんですね。朝鮮人と間違えられて、警察の派出所に連れて行かれてその取調べで、日本人だというのがわかって、本人は嬉しくなって、万歳と言ったら、自警団が、あいつは生意気だということで殺しちゃった。福田村事件同様、死体は利根川に流しました。これは実刑率が42.9%。朝鮮人殺すと執行猶予が多く、日本人を殺すと半数近くが実刑判決を受けるということです。つまり、日本人の命の重さと朝鮮人のそれと、全然違うのです。


■刑はどんどん軽くなる

 ここまでは、今までの研究者も言及していることですが、問題は、控訴、上告したらどうなるかなんです。この点についての研究はされていませんでした。なかなか判決書を見るというのは容易ではないからです。国家は、見せてくれませんから。よほど徹底抗戦する必要がありますね。控訴審、上告審で実刑判決を受けた人がどう変化したかということを第2表によって見ていきますと、最初の藤岡事件の場合は、第1審で実刑判決を受けたのは25名。控訴審になるとこれが9名に減ってしまうわけです。それでいよいよ大審院(最高裁)の判決になるとわずか2名に減ってしまう。本庄事件の場合には、第1審、浦和地裁が15名。それが、東京高裁になると15名が3名に減ってしまう。それで、神保原事件は第1審で実刑判決を受けた4名が控訴審でゼロ。寄居事件だけは上まで持っていっても、とうとう3名とも刑罰は変わらなかったですけれども。たいがい控訴、上告した場合実刑判決というのは、どんどん減ってゆき、中にはゼロということもあったのです。
 しかし朝鮮人虐殺事件の場合、まず熊谷事件ですが、実刑判決を受けた最初から非常に少なく、3名だったのが控訴審では1名、上告審で1名しか残らない。片柳事件は実刑判決を受けた被告は最初からゼロ。それから妻沼事件はどういうのかというと、第1審浦和地裁ではこれが6名いたんだけど、控訴審になるとゼロ名になってしまいます。どんどん執行猶予というのが出てきて、実際には刑罰を科せられなくなってしまいます。最初はちょっと厳しい判決を出して世間を驚かせておいて、上に持っていくとどれもひとしなみで実刑判決はものすごく減刑するか時にはゼロにしてしまう。つまり、国際世論から文句が言えないように厳しくしといて、あとでごまかしてしまう。当時の新聞を調べてみても、事件の記事を書いているのは、大正12(1923)年いっぱいぐらいですね。後になってきてくると、社会の関心がなくなってしまいますから。関心がなくなると、その隙をついて判決が甘くなる。ジャーナリズムの悪いところですね。やはり最後の最後まで、結果を追いかければいいんだけどやらないから、権力のいいようにやられてしまうんです。
 裁判所も権力です。司法権の独立なんて嘘です。簡単に行政に従属しているわけですから。彼らが重視したのは、警察の権威と日本人の命であって、朝鮮人の事などどうでもいいと、国際世論に何か言われない程度にやっておけばいいと考えたのです。いずれにしても、この裁判は日本国家の自己保身のためのものでしかなかったわけです。

■「不逞鮮人」像はなぜできた

 さて、次の話題に入りたいと思いますが、自警団を支えた内側の根拠は何であるのか。今まで見た限りは、日本の国家のそのときの都合によって適当に引きずり回されたのが自警団という事なのですが、しかし、本庄事件とか藤岡事件とかは典型的で、民衆が本当に積極的に動くわけで、何故朝鮮人を積極的に殺したのか考えてみる必要があります。
 これは、民衆の問題で、甚だ調べ難いんだけど、でも私も当時生きてたら自警団にいたと思います。自らを突き刺す意味でも、徹底的に分析したいと思います。
 ひとつは日本民衆の不逞鮮人像というのがあります。「不逞」というのは、岩波の『広辞苑』に「①不平を抱き、従順でないこと。②勝手な振る舞いをしてけしからぬこと。ずうずうしいこと」とあります。
 それで不逞鮮人というのは、日本人が1919年3・1の独立運動の頃から、一般的に使うようになった言葉のようですね。理屈を考えてみれば、植民地支配を受けた人間が、その支配をはらいのけ、自主権を獲得するのは正当な行動です。それが、何故「不逞」なのかということなのですが、彼らは日本国家の言うことを聞かない悪い奴だというのが、不逞鮮人ということの意味です。これは、権力がつくりだした言葉でしたが、民衆もこれと無縁ではなかった。民衆もこういう考え方をしたのです。
 そうでない人も多少いました。3・1運動の時に吉野作造が、他民族から批判が出てくるときに日本は何か悪いことをしていないかと反省するのが当然だが、日本人は反省もしないし、相手に不逞だ、不逞だという。日本人には、対外的良心はないのかと。それから柳宗悦という民芸品の研究者は、日本人は愛国、愛国という。他民族が愛国のために立ち上がったときに何故暴徒というのかと、言ってますね。道徳の上でダブルスタンダードを使ってはいけない。愛国というのは他民族の愛国に対しても、正当な行為として認めなければならない。日本人は平気でダブルスタンダードを使っていたんです。
 その証拠に習志野騎兵連隊の一兵士の回想を挙げておきます。習志野騎兵連隊が9月2日に出動して、東京の亀戸駅で列車を調べました。朝鮮人いないかというわけです。兵士たちが、白刃を振って、銃剣で朝鮮人を殺してしまうわけです。すると、そこに集まった一般の避難民が「国賊!朝鮮人はみな殺しにしろ!」と言ったという。日本の民衆の眼から見て、朝鮮人は国賊なんですね。それから不逞鮮人という言葉には、国賊であると同時に、日本人の滅多やたらに殺す凶暴な人間であるという、こういうイメージがついています。
 ここに漫画が2つあります。ひとつは『萬朝報』という東京で出された新聞に掲載された漫画です。3・1独立運動が起こった直後に描かれたものですが、朝鮮政治は、爆弾を投げつけられています。では何故朝鮮人と爆弾というイメージが出来たかといえば、3・1運動の後で、朝鮮人の一部が爆弾を投げるように変わっていくんです。
 3・1運動後、朝鮮総督だった斉藤実が、姜宇奎に爆弾を投げられました。それから更に、金元鳳という朝鮮人が指導者になって、義烈団っていうテロ組織を作って、ソウルの警察署に爆弾投げたり、2重橋のところで爆弾投げたりする事件も起こります。
 テロはいけないといわれます。けれども、朝鮮人をそこまで追い込んだのは誰ですか?やはり日本ですよ。3・1運動を起こすとき、指導者は非暴力闘争でいこうと誓ったんです。事実3・1闘争は非暴力闘争でした。ところが、日本の軍隊と警察が平気で銃弾をぶち込もうとするは、力ずくで弾圧するは、強姦はするは、やりたい放題やってしまったんです。そうなると言論闘争や非暴力闘争では独立できないんだよということを日本が教えたことになります。だから、満州あたりで義勇軍が作られて、武装闘争が起こり、テロ闘争が激しくなってきたのです。

 それからもうひとつの漫画は、怪物のような顔をした男が描かれた「盗賊にも虚栄心あり。其旗に日く『愛国憂民』だって...」とありますが、これは、朝鮮人なんかそんなことをまじめに考えてはいないだろう、どうせ泥棒か人殺しだという蔑視そのものです。


 朝鮮人を愛した金子文子が、夫・朴烈とともに1922年に創刊した雑誌『太い鮮人』(『不逞鮮人』という名前で出そうと思ったら、警視庁がいけないというので、もじって『太い鮮人』にした)の序文が面白いんです。日本の社会でひどく誤解されている『不逞鮮人』が、果たして無暗に暗殺、破壊、陰謀を謀るものであるか、それとも飽く迄自由の念に燃えている生きた人間であるか、我々と相類似せる境遇にある日本の労働者諸君に告げると共に(30字伏せ字)は『太い鮮人』を刊行する。」
 つまり、貧しくて虐げられている日本の労働者諸君であれば、自分たちが単にむやみに人を殺してゆく人間ではない、飽くまで自由を求めていることをわかってくれるだろうということを信じて、この雑誌を発行するという趣旨ですが、これは打破すべき日本人の偏見が何かということを物語っています。

 『太い鮮人』発行に際して
 日本の社会で酷く誤解されて居る「不逞鮮人」が果たして無暗に暗殺、破壊、陰謀を謀るものであるか、それとも飽く迄自由の念に燃えている生きた人間であるか、我々と相類似せる境遇に在る多くの日本の労働者諸君に告げると共に(30字伏せ字)は、『太い鮮人』を刊行す。
(解説:『太い鮮人』は在日「不逞鮮人」朴烈とその妻金子文子が1922年に創刊した雑誌である。最初雑誌名を『不逞鮮人』としようとしたが、警視聴が許可しなかったので『太い鮮人』とした。)
 
 中西伊之助という労働者出身のなかなか面白い文学者がいました。この人も朝鮮人のことをよく理解した人で、大震災のあと新聞批判をやっているんです。日本の新聞を見ると、朝鮮の国土や芸術がこんなに美しいとか、民族がどれほど優雅であるかなどを報道した記事は見あたらない。記事になるのは爆弾だ、短銃、襲撃、殺傷など、あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、いわゆる不逞鮮人のことを書いているだけであると、彼は書いています。だから、朝鮮を理解していない、感情の繊細な婦人がこの国を見たのならば、朝鮮とは山賊の住む国であって、朝鮮人とは猛虎の類のごとく考えられるだろうと思われます、この黒き幻影が日本の民衆の中に宿っているから、朝鮮人暴動のデマが生まれたのではないかと中西は言いました(「朝鮮人のために弁ず」『婦人公論』1923年11・12合併号)。
 これは正しいと思いますね。これは単に過去のことと思わないでください。今日本人が書いている北朝鮮の記事は何なんでしょう。ありとあらゆる文字を羅列して北朝鮮というのは非人間的な恐ろしい国だということを書きたてています。僕は北朝鮮は誤謬のない国だとは思っていません。だからと言って、今かき立てられているようなことばかりなわけでもけっしてない。やはり人間の住む世界ですからしょうがないこともあるし、やはり人間らしいということもある、こう思っていればいいんです。それを悪魔の国みたいに描いた記事が氾濫していますね。

 ――試みに、朝鮮及日本に於て発行せられてゐる日刊新聞の、朝鮮人に関する記事をごらんなさい。そこにはどんなことが報道せられていますか。私は寡聞にして未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見たことは、殆どないと云っていゝのであります。そして爆弾、短銃、襲撃、殺傷、――あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人―近頃は不平鮮人と云ふ名称にとりかへられた新聞もありますの不逞行動を報道してゐます。それも、新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって。
 若し、未だ古来の朝鮮について、また現在の朝鮮及朝鮮人の知識と理解のない人々や、殊に感情の繊細な婦人などがこの日常の記事を読んだならば、朝鮮とは山賊の住む国であって、朝鮮人とは、猛虎のたぐいの如く考へられるだらうと思はれます。朝鮮人は、何等の考慮のないジァナリズムの犠牲となって、日本人の日常の意識の中に、黒き恐怖の幻影となって刻みつけられているのであります。
(中西伊之助「朝鮮人のたに弁ず」『婦人公論』1923年11・12月合併号琴東洞編『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応』2、緑蔭書房、1997年、267頁)

■日本民衆の中の差別意識

 それからもうひとつは、日本民衆の意識の背後には民族差別意識があるということですね。戸沢二三郎という明治末から大正期を様々な工場を渡り歩いた労働者で、労働運動なんかを一生懸命やった平澤計七と一緒に活動をしていた人がいます。これはなかなか立派な人です。この人が言うには、この頃から労働者は朝鮮人のことを「ヨボ」と言って馬鹿にしていた。朝鮮語で「ヨボセヨ」というのは、「もしもし」という意味です。差別用語ではないんだけど、差別用語になってしまったんですね。その頃は、第1次世界大戦後に不況になるんですよね。大戦が終わって、日本の海外市場が縮小する。軍縮で軍事物資の注文がなくなるということがあるわけです。で、工場がつぶれたり首切りをやったり賃下げをやったりとなるわけです。そのときに日本の工場主は日本人より安い朝鮮人を使うことになるわけです。特に下級労働者に朝鮮人を使っているんですね。朝鮮人は未熟練労働者で、学校も行かないし貧しいから下級労働者なんです。だから日本人の熟練労働者は、朝鮮人に労働市場を奪われないわけです。ところが地方の農村から出てきて、学校もろくに行かなかったような日本人の下級労働者だと、朝鮮人の方が安いから職場から追われることになります。だから、下級労働者ほど朝鮮人を憎んだと、戸沢は回想しています。特に下にいた人間に職を奪われる余計腹が立つということでしょうね。そういう問題もあるんです。
 それから、差別意識というのは、様々な形で現れています。関東大震災の時に朝鮮人の子供がそうとう殺されています。吉野作造が留学生から聞いたらしくて、1924年7月9日の日記に千葉県の朝鮮人の少年の虐殺事件のことを書いているんです。この少年は学校の帰りに襲撃されて、片目はつぶれ、体中傷だらけで、喉は渇き、病院に水を求めて行くんです。病院側は可哀そうだからというので、そこで水をあげようとしたところ、自警団がやってきて、引き渡せと言う。あの頃自警団の言うことを拒否したら大変でした。お前もアカだろうと言われて、やられてしまう。自警団に対して朝鮮人をかばうということは、容易なことではないんです。それを吉野作造は庇ったのだからこれはすごいですよ。このときは、病院側はかばいきれず、引き渡したら、その少年は1時間もたたないうちに死骸になって担ぎ込まれたというんです。そして震災後、死体処理にあたった金学文さんという人の回想では「ちいさな子供まで殺されていました」と書いています。それから、妊婦なんか殺されていますね。荒川の4つ木橋で、われわれが朝鮮人の死体発掘作業をしたんですが、そのとき証言したお年寄りの話によると、目警団は妊婦を殺しています。ずいぶん残虐なことですよね。つまり子供や婦人をばったばった殺すというところまでいってしまっていたんですね。

 ――「なんとも残忍な殺し方だね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが突き刺して殺したんです。私が見たのでは、30人くらい殺していたね」
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花をはこベ』教育史料出版会、1992年、51頁)

■教育の成果としての国家意識

 それからもうひとつはやっぱり日本民衆の中にすごい国家主義がありました。それは、例えば、横浜である労働者が9月3日にこの日までに6人朝鮮人を殺した、「天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア」といったのです。では、「天下晴れての人殺し」とは、どういったものでしょうか。「それは、警察官が朝鮮人とみたらとりあえず警察へ連れて来いと、言う事聞かなかったら、殺しても構わないということをあちこちで言っているんです。だから警察の旦那が、朝鮮人を殺してもいいと言ったから「天下晴れて」なんですね。お上が許せば、どんな人間殺しても平気だと、良し悪しの判断は国家に預けたということなんですよ。
 それから、9月4日に埼玉県の本庄署に襲撃をかけて、拘置中の朝鮮人を80数人から100人ぐらい殺しているわけですよ。その翌日、殺した農民らしい人ですが本庄署の巡査の新井賢次郎に対して「不断剣をつって子供なんかばかり脅かしやがって、このような国家緊急の時には人一人殺せないじゃないか、俺達は平素ためかつぎをやっていても、夕べは16人も殺したぞ」(『かくされていた歴史―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺』関東大震災50周年朝鮮人犧牲者調查·追悼実行委員会、1974年、102頁)と豪語したわけですね。国家緊急の時といって思い出されることはありますか。僕と同い年位の方が思い出すでしょう。教育勅語にあります。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」。ぼくはこれは恨みを持っていて絶対に忘れませんが。国家の緊急の時とはそういうことなんです。だから朝鮮人殺すのは、教育勅語に基づいた立派な行動なんですね。埼玉県の片柳村染谷で、朝鮮人を殺した人が「悪漢をしとめたから是非恩賞を貰いたい」と大宮警察署まで出向いていったんです。だって埼玉県が、自警団をつくって朝鮮人に対処せよと村や町に通達し、そのお上の言う通り忠実にやって殺したんだから、褒美を貰って不思議はないという事なんでしょうね。そこまで事態は発展してしまうわけです。
 自ら堂々と国家のために殺したんだと言う人が出てくるんです。早い話が、この福田村事件。1923年11月28日、千葉法廷でこの事件の被告は「摂政の宮殿下には玄米を召し上がられている際、不逞鮮人のため国家はどうなるかと憂れえの余りやったような次第です」と言っています(『東京日日新聞』1923年11月29日、房総版)。あるいは千葉県の浦安町で朝鮮人を殺した平野音吉という人は、「一太刀浴びせて殺したが、国家を思ふためにやったのだ」ということを法廷で話しています(同紙1923年11月15日、房総版)。
 秋田雨雀という僕が大好きなドラマ作家がいますが、彼は事件の翌年『骸骨の舞跳』という自警団を題材にした面白いドラマを書いていますので、是非ご覧ください。この中に自警団員が登場してきて、「私たちは国家のために朝鮮人をやっつけてしまわなければなりません」と言っています。この中に秋田の分身と見られる青年が自警団員に対して「諸君は命のない操り人形だ!」と言うわけです。言っている意味は、あなたたちは人間としての資格がない、国家の操り人形だと言っているわけです。これは、残念ながらあたっていると思います。それは決して他人のことを、言っているのではないんです。僕は、1945年の春、15歳でしたが、「本土決戦」と叫ばれたので、死にたくはないけれども、死ぬより他仕方がないと諦めていました。米軍に投降して命をながらえるという発想はどこからも出て来なかったですよ。それが今でも悔しいんですけど。「生きて虜囚の辱めを受けず...」という『戦陣訓』の言葉が15歳の少年の中にそのままあって、なんとなく捕虜になってはいけないという意識があったんですね。自分が国家の虜になっていた、皇国少年だったということを、未だに忘れていません。だから、ぼくが関東大震災の時に生きていたら、自警団に参加して朝鮮人を殺していたと思います。

■朝鮮人虐殺から15年戦争へ

 さて、そろそろまとめたいと思いますが、要するに自警団の母体というのは米騒動直後の頃から、警察が民衆を取り込もうとして作っていたのです。それを母体にして、自警団ができて、日本刀だの竹槍だので武装して、朝鮮人を殺すというふうに変化していったのです。
 9月2日に日本国家の治安当局の中枢部は朝鮮人暴動を事実として認定して、自警団結成を促すわけですが、朝鮮人の暴動が存在しないことがわかると一方では朝鮮人暴動をでっちあげ、他方では裁判で朝鮮人虐殺の責任をすべて自警団に転嫁させて、日本国家の責任が済んだような顔をして、今日まで1回も謝罪しないで通してきたわけです。
 北朝鮮がおかしいといいながら、我が日本国家は何をしてきたか。他人のおかしいことは気がつくけど自分のおかしいところは気がつかないのは人間一般のことですが、きちんと見れば、向こうがおかしいというのなら、こっちはもっとおかしい。
 自警団は、日本国家の朝鮮人虐殺に積極的に加担したのだから、単純な被害者とも言い切れないのです。彼らには、「不逞鮮人像」があり、差別意識があり、国家主義があって、朝鮮人というものを日本国家を通してしか、眺めることができない。国家を外して、人間として見ることができない精神状況にあったのです。
 吉野作造、金子文子、柳宗悦という人は、国家を相対化していました。吉野作造は、神の国から比べたら現実の国家などたいしたものではないと、はっきり言っています。国家を相対化して、人間を大事にして見る視点を持たないと結局最後は何でも国家にお任せして、何をやっても良心の痛みも感じない。個人の人権なんてどこかに吹き飛んでしまうわけですね。
 マルクス主義というのは今、評判が悪いのだけれども、「他民族を抑圧する民族は自由になりえない」と言ったレーニンの言葉は真実だと思います。朝鮮人の自由を奪った日本民衆は自らもけっして自由でありえない。結局日本民衆は日本国家の朝鮮人支配の補助部隊として取り込まれて殺す側に回されてしまいました。侵略する国家というのは、自国の国民も大事にしてくれません。特攻隊なんていうのは、その典型的な例でしょう。あの頃は、天皇陛下のために死ぬことを桜の花の散ることに例えて美化する雰囲気が蔓延していました。特攻隊も大部分は形式上は募集なんですよね。だけど募集だからと言って、このような状況の下では拒否なんかはできないですよ。死ぬことが軍人の使命であり、美しいものだと教えられているから、ノーだと言えないような心境に閉じ込められていたのです。藤原彰さんが言ったように、日本人の兵士の死者のうち半数は餓死です。日本の軍隊は現地補給主義を方針としました。要するに国は補給なんかしてやらない、現地で食糧は住民からかっぱらえと言うんですから、餓死で死んでしまうわけです。それくらい兵士の人命を軽視しました。
 これは、朝鮮人虐殺からすさまじい数の日本人兵士の悲惨な死まで糸がつながって行ったことを物語っています。


山田昭次 主要著作

(1)単行本

・近代民衆の記録6 満州移民 新人物往来社1978(編著)
・生き抜いた証にーハンセン病療養所多磨全生園朝鮮人・韓国人の記録―緑蔭書房 1989(立教大学史学科山田ゼミナール編)
・近現代史のなかの日本と朝鮮 東京書籍 1991(共著)
・隣国からの告発―強制連行の企業責任2 創史社 1996(編著)
・金子文子―自己・天皇制国家・朝鮮人― 影書房 1996

(2)関東大震災時著鮮人虐殺事件関係著書・論文

・関東大震災期朝鮮人暴動流言をめぐる地方新聞と民衆(「朝鮮問題」懇話会 1982)
・関東大震災と朝鮮人虐殺―事件をめぐる民衆意識について(旗田魏編『朝鮮の近代史と日本』大和書房 1987)
・関東大震災時の朝鮮人虐殺事件裁判と虐殺責任のゆくえ(在日朝鮮人史研究 第20号 1990・10)
・関東大震災のもとでなぜ朝鮮人・中国人虐殺事件が起こったか(藤原彰、他編『日本近代史の虚像と実像』2 大月書店 1990)
・関東大震災時の朝鮮人虐殺責任のゆくえ(歴史評論 1993・9)
・関東大震災朝鮮人虐殺と日本人の被害者意識のゆくえ(在日朝鮮人史研究 第5号 1995・9)
・関東大震災時の朝鮮人虐殺をめぐる日本国家と民衆(部落解放 1997・4)
・関東大震災時、朝鮮人虐殺事件の国家責任とその隠蔽過程(統一評論 1999・3~4)
・関東大震災時朝鮮人虐殺事件直後の日本人の抗議と追悼の営み(アリラン通信 第23号 2002・1)

(3)その他の分野に関する近年の論文

・金子文子と吉野作造の朝鮮観―近代日本の朝鮮観把握の方法の深化のためにー(朝鮮史研究会論文集 第8号 1998)
・植民地支配下の朝鮮人強制連行・強制労働とは何かー「強制」の性格を改めて問う(在日朝鮮人史研究 第8号 1989・12)
・朝鮮女子勤労挺身隊の成立(在日朝鮮人史研究 第3号 2001・10)
・日韓条約の問題点を改めて考える―日朝国交正常化で再び疑似和解を繰り返さないためにー(石坂浩一、田中宏、山田昭次、他著『日韓条約への市民的提言』明石書店 2001)

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