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2023年7月7日 福田村事件を語る集い

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ご注意:福田村事件追悼慰霊碑保存会主催の催しではありません。 終了しました。 資料の一部を 福田村事件を記録する旧田中村・民の会 のブログからダウンロードできます。 >>> 関東大震災から100年 <<< 福田村事件を語る集い 日時 : 2023年7月7日(金) 13:30〜16:30 場所 : アミュゼ柏1階 「プラザ」  (定員150名 / 柏市柏6丁目2-22) http://amuserkashiwa.jp もくろみ : 福田村事件(*1)に関連した出版物などによる情報は決して多くはありません。集いでは、情報のもとになった歴史資料などを読み、情報の再検証を試みます。史実を直視することが、このような残忍な暴力を繰り返さないための出発点です。100年を機に、みらいの世代に継承することをめざします。 内容 :  ① 数名(4~5名)からの発言、各20分程度 福田村事件をはじめ、関東大震災時の関連した記録や資料、証言などを集めてきた方、こうした研究をされてきた方々に、参加と発言をよびかけます。 ② 会場参加者からの情報提供 福田村事件をはじめ、関連した証言を「親類から聞いた」「見たことがある」など、参加者の方々からの体験談などの発言時間を設けます。 ③ 100年となる今年の犠牲者追悼会について  昨年の9月6日に墓参会を行った「福田村事件追悼慰霊碑保存会(保存会)」の方に、今年の100年追悼会の準備状況と協力要請などの発言をお願いしています。  参考:保存会のブログ https://1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com/ *参加予約は不要です。参加費として500円(資料代金)をご用意ください。 よびかけ : 福田村事件を記録する旧田中村・民の会  (略称 「たみのかい」) *この催しへの協賛、賛同をよびかけます。 連絡先:柏市松葉町5-1-19-508(松丸方) 090-3147-8278 tanakamura1923★gmail.com (★はアットマークです) *この事件を『柏市史 近現代編』は「福田村・田中村の事件」と記述しています。 *福田村事件をはじめ、ご自宅などにある関東大震災時の記録や家族などから聞いた証言を集めています。ぜひお寄せください(上記へ郵送、またはe-mailでお願いします)。 *1.「福田村事件とは」

1949「関東大震災の治安回顧」抜粋(千葉自警団)その2

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『関東大震災の治安回顧』75頁からの文字起こしです。 読みやすくするため、一部の「旧字体」を「新字体」にしました。誤字脱字等はご容赦ください。 第四章 自警團騷擾の勃發 第二節 各県下の騒擾状況 第一款 千葉県下の騒擾状況  千葉に於ける自警団騒擾は、既述の如く件数にして総数二十一件に達し、九月三日以降同月六日迄の前後四日間に亘り、同県下十六個町村の治安を擾乱したが、先づ之等騒擾発生の場所及び時期を表示し、大で各騒擾の状況を概説すれば、次の如くであった。   東葛飾郡浦安町  九月三日、四日   同   馬橋村  九月三日   同   葛飾村  九月四日   同   船橋町  九月三日、四日   同   我孫子町 九月三日、四日   同   中山村  九月四日、五日   同   南行德村 九月四日、五日   同   小金町  九月五日   同   福田村  九月六日   香取郡 滑河町  九月四日   同   神崎町  九月四日   同   佐原町  九月四日、五日   君津郡木更津町  九月四日、五日   千葉郡検見川町  九月五日   印旛郡成田町   九月四日   海上郡三川村   九月四日  而して右各町村に於ける騒擾は、次に述べるが如く多くは単発であったが、浦安町に於ては三件、船橋町、中山村、木更津町に於ては各二件の併発を見る状況であった。 (76頁の地図) 第一、東葛飾郡浦安町に於ける騒擾 一、九月二日、鮮人二名が其の雇主たる内地人一名と共に、震災の厄を逃れて浦安町堀江所在の田辺某方に避難して来た。然るに同町内を自警中であつた数百名の群衆は、之等鮮人二名を不逞鮮人と誤認し、翌三日午後十一時頃に至るや、竹槍、棍棒等を携へて田辺方に押寄せ、忽ち同家を包囲した上、右鮮人二名の引渡を迫り、之を制止せんとした駐在巡査等に対して危害を加へるが如き険悪な気勢を示して喧噪し、途に該鮮人二名を同家から引出して縛り上げ、同町堀江地先なる江戸川堤防水番小屋附近に連れて行き、日本刀其の他の兇器を振って右鮮人二名を殺害し、騒擾を惹起した。 二、九月三日午後、浦安町当代島所在の金橋某方の雇人である内地人一名が同町猫実に来たところ、折柄警戒中の数十名の群衆は同人を見附けて鮮人と疑ひ直に取押へて縛り上げ、取調の爲めとして同町役場へ連行したが、其の際同役場前に蝟集して居た百名の群衆は、同

1949「関東大震災の治安回顧」抜粋(千葉自警団)その1

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「関東大震災の治安回顧」の自警団と千葉の事件に関係する部分の抜粋を2回に分けて掲載します。(誤字脱字がまだ多いかと思います…) 第四章 自警団騒擾の勃発 第一節 全般的状況  大震災後各地方に勃発した自警団騒擾に就ては、前章の内鮮人殺傷事犯に於けると同様主として、関係各地方裁判所検事正の犯罪検挙報告並に処分報告を始め、同地方裁判所の予審終結決定又は第一審判決等の資料に依つて之を検討すれば、以下の如き状況であつた。  彼の自警団騒擾が勃発した地域は、災害が単に一日間に止まらず、二日間乃至三日間に及んで継続したものがあり、之が発生継続状態を関係各県に分けて日割別に表示すれば、次の如くであった。  以上の表示に依れば、自警団騒擾が震災に依って直接治安の混乱状態を現出した京浜地方ではなく、寧ろ之に隣接す千葉、埼玉、群馬の三県であつた。面して之等騒擾の発生地は、千葉県下の十六箇町村、埼玉県下の五箇町村、群馬下の二箇町村、以上合計二十三箇町村に亘つて居り、其の件数は同一地域に全然別個な数件の騒擾が併発したものがあっため、千葉県下の二十一件、埼玉県下の五件、群馬県下の二件以上合計二十八件に達する状況であつた。然かる之等の騒擾は九月三日以降同月六日迄の前後四日間に限られたものであり、其の間千葉、埼玉、群馬の順を追って勃発し、然かも全般の最高潮期が九月四及び五日の二日間に過ぎなかったことを認めることが出来る。    自警団騒擾が斯くの如く偏る経過的な騒擾として極めて短期間に鎮静したのは、斯種騒擾の原因なるものが、震災の恐怖から転化した不逞鮮人襲来に基くものであり、騒擾自体が民衆の自衛的暴発に過ぎなかっためであらう。群衆心理学者の中には戦時に於ける国民心理を最も典型的な群衆心理なりとして、斯かる戦争群衆を此の震災群衆と比較し、次の如く説くものがある。即ち「例へば戦争群衆と震災群衆とを比較せよ。両者は単に時間的経過の長さに於て異るのみではない。例へば前者に於てはプロパカンダが其の成立に不可欠の条件であり、其の本性上極めて憎悪的発動的にして、夫が消滅する過程に於ては戦争の原因去れりとするも、或る場合には敵に対する復讐心は容易に去らず、又或る時には革命や恐慌を伴ひ、震災群衆が震動の鎮静したる為、自然的に消滅するのとは、比較すべからざる複雑な過程を辿るものである。」(前駅「群衆心理」参照)だが

『野田市史 資料編 近現代2』 「徳島」は「香川」の誤り。

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 「徳島」は「香川」の誤り。 『野田市史 資料編 近現代2』(2019年)の掲載資料(更新・上書き版) 2022年11月9日に掲載したのは資料のみで、後日「解説」部分を閲覧したところ、資料部分についての記述がありました。その記述を加えた「更新・上書き版」をあらためて掲載します。 加えた部分は、p.3からp.28に記述されている「解説」のうち、p.5に記述されている福田村事件該当部分と前後の関連部分の合計19行分です。  『野田市史・資料編近現代2』 野田市/2019年2月21日 解説(p.5から抜粋)  第三項では関東大震災関連及び消防行政に関するものを集めた。震災における東葛飾郡北部における被害は少なかったが、東京からの避難民への対応や、朝鮮人暴動に関する流言飛語に対する警戒などが行われた。I20は川間村の事務報告中の土木の項目で、道路改修状況を示したものだが、その中に地震による河川土手の亀裂・崩壊があったことが記載されている。またI21は、梅郷村の事務報告中の震災関係の記録で、三二一人の避難者があったこと、特別警戒が二日から十二日まで行われてことなど、援助活動が日を追って記録されている。隣村の福田村では、この警戒活動中に朝鮮人と間違われた 徳島 (ママ*) からの行商人九人が殺害される事件が発生した。I22~24は、事件の概要と、その求刑・判決公判を伝える新聞記事である。同事件については、辻野弥生『福田村事件 関東大震災知られざる悲劇』(崙書房、平成二十五年)がある。I25は野田町で行われた帝都復興促進会による映画界の案内状である。  消防体制に関わる基礎的なものは、すでに前巻に掲載している。本巻に掲げたI26~28は、その補遺で、七福村の降雪消防組の組織と野田町の消防組規程及び梅郷村における大正末からの消防組の活動を示したものである。梅郷村のものには、大正十五年の野田醤油工場火災への対応が記されている。 * 「徳島」は「香川」の誤り 。 *次の投稿で、 『福田村事件 関東大震災知られざる悲劇』(崙書房、平成二十五年)の関連部分を紹介します。 第一編大正後期から昭和戦後期の政治と行政 第一章第一次世界大戦後の政治・行政と社会 三 震災と消防 I20 川間村の道路改修 大正十二年 【略】 (川間村行政文書「大正十三年議事関係文書編冊川間村役場」大正十二年川間村事務

『我孫子市史』が問う政府・軍・警察・などの行政責任

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 我孫子市では、救護所が設置された八坂神社境内で、9月3日および4日、3人の朝鮮人が自警団によって殺された。2004」年発行の『我孫子市史』では、この記録を『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』に求めたが、1980年発行の『柏市史年表編』の707頁には9・3「根戸消防組員が朝鮮人三人を取り押さえたのに端を発し、『鮮人惨殺我孫子事件』おこる」「柏ニテハ鮮人三〇人以上を生捕シ、我孫子ニテハ三人ヲ切捨テタリ(花野井・平川新次郎日記)」と複数の資料をもとにして記録している。平川日記では「切捨テ」だが、裁判等では「撲殺」の違いはあるが、福田村事件の2~3日前で、田中村・花野井への情報の届き方を考えれば、我孫子の凶行は福田村・田中村の事件に大きな影響を与えたともいえるのではないか。    我孫子市史は、依る資料は少ないものの、「県や郡当局の指導の下、在郷軍人会、消防団、青年団員等からなる自警団が組織されていった」「自警団による朝鮮人の殺害が、各地で行われた。軍隊、警察官などによるものも含めると、殺された朝鮮人は六〇〇〇人余ともいわれている」と、国と当時の地方行政機関の責任を認めた記述である。  『我孫子市史近現代篇』(我孫子市教育委員会/我孫子市史編集委員会近現代部会編/2004年)から関連部分を書き起こしする。 『我孫子市史近現代篇』 第七章 田園の憂鬱   > 第二節 恐慌の村 関東大震災と我孫子事件  大正一二年九月一日午前一一時五八分、関東東海地方を襲った大地震は、全焼世帯が三八万一〇九〇、半焼五一七。全潰世帯八万三八一九、半潰世帯九万一二三三、流失世帯一三九〇、死者九万一三四四人、行方不明者一万三二七五人、重軽傷者五万二〇七四人。全半焼全半潰流失罹災者の総数は二五四万八〇九二人にも及ぶ大惨事をもたらした。地震発生が昼時と重なったこともあり各地で火災が発生し被害を拡大させた。東京市の被害世帯数は、全焼三〇万九二四、半焼二三九。全潰が四二二二、半潰は六三三六。死者五万八一〇四人、行方不明者一万五五六人、重軽傷者二万六二六八人と発表されている(『千葉県警察史』第一巻)。  千葉県の被害世帯は、全焼四七八、全潰一万二八九四、半潰六二〇四、流失八四、死者一三七三人、行方不明者四七人、重軽傷者二〇九五人。全半焼全半潰流失罹災者は九万六六二〇人で郡別に見ると安房郡の被害がもっともひど

『松戸市史』にみる軍・警察・自警団と地元有力者

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 常磐線は1896年12月25日に日本鉄道海岸線として田端・土浦間が開通した。 1911年、江戸川に木製の葛飾橋がかけられた。1927年、初代「葛飾橋」の場所より600mほど下流に二代目の「葛飾橋」が完成(1972年に架け替え)。1965年、150mほど下流に国道6号「金町バイパス」の「新葛飾橋」ができた。1923年の関東大震災での罹災者、2011年の東日本大震災では帰宅難民の多くがこれらの橋を徒歩で渡った。 『松戸市史下巻第2(大正・昭和編)』 (松戸市誌編纂委員会編/松戸市/1968年)の438頁から445頁を書き起こした。当時の「消防組」を「消防団」としたり、「であっただろう」など推測のまま発行するなど、史実を確認せぬままの記述がめだつ。松戸市も、これまでの記述の誤り等をただし、関東大震災100年にむけて史実に沿った記録をまとめるべきである。 ------------------ 『松戸市史下巻第2(大正・昭和編)』 第七章 大正の松戸 第九節 商工業と市民生活の変遷 438頁~ 流言蜚語とその犠牲者  震災が発生し、非常の事態が現出すると、陸軍大臣は東京衛戍司令官に指令して、近衛および第一師団に東京市を警備せしめ、主要建造物の警衛を厳にするほか、国府台、習志野、千葉、四街道、松戸などに駐屯する軍隊を招致して、東京衛戍司令官の管轄下に編入させた 。  翌二日には緊急勅令をもって東京市および隣接五郡(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡)に戒厳令を布告した。更に三日にはその範囲を東京府と神奈川県とし、四日には埼玉県と千葉県が含められた。  この処置は、大震災直後の混乱に対し、警察力では治安維持が困難となったためとられたもので、その一つとして千葉県下では東京に近接した市川・松戸・船橋・千葉および形勢険悪な状態にある佐原の各警察署管内に検問所が開設された。松戸署の管内では葛飾橋のたもとに警官四人、兵士七人を常駐せしめ、我孫子駅前には警官二名、兵士三名を常駐せしめている。  以上のような中で、関東大震災発生直後の二日から十日ごろまでにかけて「社会主義者、不逞鮮人の暴動」という流言が真実のように伝えられたため、松戸市域住民も大いに動揺し、嘗てなかったほどの恐怖を味わされた。  それも一日の激震のあとの余食につぐ余震、これに加えて交通、通信は全く杜絶し、唯一の正

『市川市史』でみる行徳町の「保安組合」と「消防組」

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行徳町(ぎょうとくまち)は、1889年から1955年に市川市に編入された東葛飾郡の町。 市川市は、1934年東葛飾郡市川町、八幡町、中山町、国分村が合併して発足。1949年に大柏村、1955年に行徳町、1956年に南行徳町を編入して現在に至る。 『市川市史 第七巻』 (市川市史編纂委員会 編/吉川弘文館/1974)に掲載されていた次の文章を書き起こした。 近代編 四.保安・警備 p.143 一一〇 保安組合設置に関し協議会開催通知(大正十二年) p.144 一一一 保安組合規約(大正十二年) p.145 一一二 保安組合標札送付の件(大正十二年) p.145 一一三 保安組合日誌送附並びに組長指名報告に関する件(大正十二年) p.146 一一四 警部補派出所新設並びに消防組織改善祝賀会の件(大正十二年) p.147 一一五 行徳町消防組に関する件(大正十二年) 近代編 一一.社会・民生 p.383 二七一 震災後の警戒について(大正十二年) p.384 二七二 鮮人収容の件(大正十二年) p.384 二七三 寄贈米に関する件(大正十二年) p.385 二七四 自警団について戒厳司令部の通知(大正十二年) p.386 二七五 震災被災者に衣類寄贈の件(大正十二年) p.386 二七六 地方上京者阻止について(大正十二年) p.386 二七七 罹災申告の件(大正十二年) この文字起こしを、日付順に掲載する。 1923年2月7日 保安組合設置に関し協議会開催通知 協議会ニ関スル件 保安組合設置三関ン船橋署長当役場へ出張ノ上親シク御協議致シ度来ル八日午後一時各区長参集方依頼越シ候条、同日ハ遅刻ナク御参集相成度、若シ区長御差支ノ向 ハ同代理者ヲ御出席セシメラレ度、此段通知及ビ候也 大正十二年二月七日 行徳町長 足立 斐    各区長殿 (日時不明) 保安組合規約 第一条 本組合ハ行徳町稲荷木保安組合ト称ス 第二条 本組合(東葛飾郡行徳町稲荷木区内ニ居住スル各戸ノ主脳者ヲ以テ組織ス 第三条 本組合事務所組合長宅以テ之ヲ充ツ但シ特ニ定メタル場合ハ此ノ限リニアラス 第四条 本組合ハ日常起リ易キ各種ノ禍害ニ対シ隣保相団結シ且関係官公署団体組合等ト連絡ヲ保チテ之未然ニ防止組合内安全ヲ期スルヲ以テ 目的トス 第五条 本組合ノ行ハムトスル事業概ネ左ノ如シ  一災害防止並ニ其救護ニ関スル事項

『野田市史 資料編 近現代2』(2019年)の掲載資料

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  『野田市史・資料編近現代2』 野田市/2019年2月21日 第一編大正後期から昭和戦後期の政治と行政 第1章第一次世界大戦後の政治・行政と社会 三 震災と消防 20 川間村の道路改修 大正十二年 【略】 (川間村行政文書「大正十三年議事関係文書編冊川間村役場」大正十二年川間村事務報告抄録) 21 梅郷村の震災関係庶務 大正十二年 【略】 (梅郷村行政文書「大正十三年村会々議録及議決書編冊 梅郷村役場」大正十二年梅鄉村事務報告書 抄錄) 22 東葛飾郡福田村における騒擾 大正十二年九月 後編 関東大震災下の取締状況  [中略] 第四章 自警団騒擾の勃発 [中略] 第一款 千葉県下の騒擾状況 [中略] 第九、東葛飾郡福田村に於ける騒擾 九月六日午前十時頃、香川県人である高松市帝国病難救薬院の売薬行商団一行が、売薬其の他の荷物を車に積み、東葛飾郡野田町方面から茨城県方面へ赴くべく、福田村三つ堀に差掛り、同所香取神社前で休憩した。然るに当時附近に於て鮮人の侵入するものあるべしと警戒に従事して居た自警団員が之を見附け、鮮人の疑があると称して右売薬行商団員を種々審訊して荷物を検査したところ、四国弁にて言語不可解な点等があった為め、右自警団員は全く鮮人なりと誤信し、警鐘を乱打して急を村内に告げ、又は隣村に応援を求めるに至った。其の結果、数百名の村民は忽ち武器を手にして同神社前に殺到し、前記売薬行商団を包囲し、「朝鮮人を打殺せ」と喧囂し、該行商団員等が百方言葉を尽して「日本人である」と弁解したに拘らず、鮮人に対する恐怖と憎悪の念に駆られて平静を失った群衆は、最早右弁解に耳を傾ける遑もなく、或は荒縄で縛り上げ、或は鳶口、棍棒を振つて殴打暴行し、遂には「利根川に投込んで仕舞へ」と怒号し、香取神社から北方約二丁の距離にある三つ堀渡船場に連れて行き、右行商団員九名を利根川の水中に投込み、内八名を溺死せしめたが、他の一名が泳いで利根川を横切り対岸に遁れんとするや、群衆中より船で追跡するものが現はれ、対岸で之を斬殺し、残つた五名の行商団員は急報に接して駆付けた巡査等の為め、辛くも救助されて僅に死を免れる等騒擾を極めた。 [後略] (国立国会図書館所蔵 昭和二十四年九月特別審査局資料 第一輯「関東大震災の治安回顧」吉河光貞抄録) 23 福田村事件求刑公判 大正十二年十一月 千葉県下の九人殺し

福田村事件80周年と追悼碑建立-その2

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「解放新聞(香川版)」第109号 2003年9月25日 福田村事件80周年N0.2 ■福田村事件の背景にあるもの  行商人の一行が野田の木賃宿を出発して三ツ堀の渡船場に着くまでの道中、付近の住民は家の陰から遠巻きに見ていた。「ほらあの人たちだよ」と灰毛集落の人達がヒソヒソ話をしながら見ていたことを新村勝雄さん(今年86歳で逝去、福田村最後の村長)が証言している。自警団も予め香取神社周辺に集まって待機していたと思われる。田中村自警団が緊急事態を告げる半鐘を聞いてから駆けつけたとすれば、こんなに早く現場に到着できない。あらかじめ手ぐすね引いて待っていたと考えるべきだろう。  ところで事件の背景として、行商人や飯場労働者、朝鮮人などに対する排除と民族差別、職業差別があったと「柏市史」は指摘している。  当時の農村は共同体として内部は固く結束していた。しかし外の人間に対しては閉鎖的であった。朝鮮併合以来、この地域でも土木工事現場や行商などで朝鮮人が増えた。「どこの人か分からない」との警戒心が高じて「危ない人」、「危険な人」との偏見が生まれ、ついには「地域の敵」と見なされるようになった。三ツ堀地区に隣接する瀬戸の旅館では、売薬行商人が宿泊するときに宿帳を駐在所に提出するほど警戒は徹底していた。千葉県警察は、「行商人を見たら直ぐ警察へ知らせよ」との防犯ポスターを張り巡らせていた。不正行商人かどうかは見た目では分からない。行商に対する偏見と敵対視がいかに厳しかったかが分かる。 ■福田村事件と行商問題  行商は香川県の部落産業であった。香川の部落は農村部に点在していながら、ほとんどが農業では生計を立てていない。多くは山の陰や水はけの悪い湿地帯にあり、そのうえ狭く、農業では成り立たたないからである。しかし勤めに出るにしても、能力も意欲もありながら差別して採用してくれない。そのため自立を目指す部落の人達は商業に活路を切り開いていった。商業といっても行商なら比較的少ない資金で出来るし、現金収入にもなる。こうして香川の部落では行商が一般的な仕事になった。福田村事件が起きる3年前には、3割近くの家庭が行商を主な生業としていた。  行商が扱う品物は、肉や魚、野菜などの食料品から衣類のような日用品や雑貨、薬など様々であった。また、靴修理や傘の張り替え、家具の修理や演歌の流しなど、自慢の腕やノドな