1949「関東大震災の治安回顧」抜粋(千葉自警団)その1



「関東大震災の治安回顧」の自警団と千葉の事件に関係する部分の抜粋を2回に分けて掲載します。(誤字脱字がまだ多いかと思います…)

第四章 自警団騒擾の勃発

第一節 全般的状況

 大震災後各地方に勃発した自警団騒擾に就ては、前章の内鮮人殺傷事犯に於けると同様主として、関係各地方裁判所検事正の犯罪検挙報告並に処分報告を始め、同地方裁判所の予審終結決定又は第一審判決等の資料に依つて之を検討すれば、以下の如き状況であつた。

 彼の自警団騒擾が勃発した地域は、災害が単に一日間に止まらず、二日間乃至三日間に及んで継続したものがあり、之が発生継続状態を関係各県に分けて日割別に表示すれば、次の如くであった。
 以上の表示に依れば、自警団騒擾が震災に依って直接治安の混乱状態を現出した京浜地方ではなく、寧ろ之に隣接す千葉、埼玉、群馬の三県であつた。面して之等騒擾の発生地は、千葉県下の十六箇町村、埼玉県下の五箇町村、群馬下の二箇町村、以上合計二十三箇町村に亘つて居り、其の件数は同一地域に全然別個な数件の騒擾が併発したものがあっため、千葉県下の二十一件、埼玉県下の五件、群馬県下の二件以上合計二十八件に達する状況であつた。然かる之等の騒擾は九月三日以降同月六日迄の前後四日間に限られたものであり、其の間千葉、埼玉、群馬の順を追って勃発し、然かも全般の最高潮期が九月四及び五日の二日間に過ぎなかったことを認めることが出来る。
 

 自警団騒擾が斯くの如く偏る経過的な騒擾として極めて短期間に鎮静したのは、斯種騒擾の原因なるものが、震災の恐怖から転化した不逞鮮人襲来に基くものであり、騒擾自体が民衆の自衛的暴発に過ぎなかっためであらう。群衆心理学者の中には戦時に於ける国民心理を最も典型的な群衆心理なりとして、斯かる戦争群衆を此の震災群衆と比較し、次の如く説くものがある。即ち「例へば戦争群衆と震災群衆とを比較せよ。両者は単に時間的経過の長さに於て異るのみではない。例へば前者に於てはプロパカンダが其の成立に不可欠の条件であり、其の本性上極めて憎悪的発動的にして、夫が消滅する過程に於ては戦争の原因去れりとするも、或る場合には敵に対する復讐心は容易に去らず、又或る時には革命や恐慌を伴ひ、震災群衆が震動の鎮静したる為、自然的に消滅するのとは、比較すべからざる複雑な過程を辿るものである。」(前駅「群衆心理」参照)だが一般に戦時特に力戰下に於ける国民心理なるものは、右の如く群衆心理と謂はるべきものではなく、寧ろ各民族に固有なる伝統と各画家社会の特有なる構成を基礎とした複雜にして廣なる集団心h理とはるべきものであり、此の集団心理たるや、戦意昂揚の積極性を具へる反面に於て、精神的恐慌発生の危険性を内包するものであらう。此の点に関し陸軍中将酒井鎬次は其の著『戦争指導の実際』に於て左の如く説いて居る。「古来戦史上軍隊には、精神的恐慌といふ事例が沢山にある。併し総力戦となると、軍隊のみならず、国民にも精神的恐慌が起ることがあらう。これは集団心理の一現象であつて、第一に戦勝の確信を失ひ、第二に敵国の攻勢で恐怖と落胆とが生れ、第三に戦争の突発的事件で恐慌状態となり、第四に国民的降伏となる段階が通常取られる。総力戦では何んと云っても、国民精神の作興が、戦勝の最大要件である。」と。些か余談に亘ったが、「震災群衆」に依る自警団騒擾が恐怖の消滅と共に鎮静すべき本来単純なる騒擾であったことは、前記の引用に依るも明白なところであった。加之(しかのみならず)自警団騒擾に際しては、矯激なる政治思想団体の宣伝が介入せず、又一般民衆の間に何等重大なる社会的不平不満がして居らず、騒擾中に現された思想的動向が、主として不逞鮮人又は社会主義者の震災に乗する暴挙襲来を「国家の重大事」なりとして、之を自警撃攘せんとするに在ったことも、斯種騒擾が簡単に鎮静するに至つた消極的な原因であつた。
 而して自警団騒擾は、他の異る特殊な類型にする騒擾であった。震災直後羅災地域諸方に亘って戎兇器を携帯する自警団が続出した事実は、夫れ自体治安紊乱の危険性も帯びた騒擾類似の現象ではなかったであらうか。自警団騒擾は斯かる自警団の成立を前提とし、之を地盤として誕生した擾乱であつた。換言すれば、斯種騒擾の勃酸に先立って既に当該地方の治安は或る程度迄、不逞鮮人襲来の流言波及と自警団の出現に依って、惑乱されて居たものと謂ふべく、之等騒擾は寧ろ斯かる治安紊乱状態の必然的所産に外ならなかったのである。従って斯種騒擾中、単に群衆行動に依る内鮮人殺傷事犯を内容とした騒擾は、一般に騒擾としての反社会性が比較的に重大ではなかったと謂ふことが出来る。然し等の騒擾中にも、浦安町に於ける騒擾の如く、町助役自身が騒擾の指導的役割を演じ、町役場を本據として自警団群衆が捕縛連行した不逞鮮人容疑者なるもの取調に常り、然かも之と不逞鮮人なりと誤断し、群衆をして殺害せしめたが如き悪質な動向が散見された。他方自警団騒擾中には、右の如き群衆行動に依る内鮮人殺傷事犯に止まらず、警察官の鮮人保護に開する措置を不当なりとして、「鮮人を保護する警察官は社会主義者なり、民衆の敵なり」と呼号し、巡査駐在所又は警察官署を襲撃し、收容中の鮮人等を殺害したのみならず、本庄町に於ける騒擾の如く、之に際会して警察官憲にする平常の不満を爆発せしめ、警察権敵対の行動を採るが如き、治安上頗る憂慮すべき傾向も現出するに至つた。自警団騒擾中右の如く警察権に対する反抗に及んだ騒擾を列挙すれば、千葉県下に八件、埼玉県下に二件、群馬県下に一件以上合計十一件に達し、警察官署にして自警団群衆の襲撃を蒙ったものは、佐原、本庄、藤岡の各警察署及び寄居警察分暑の四箇所に及ぶ状況であつた。
 次に之等各下の騒擾状況中、特に注目すべき諸事情を検討すれば、左の如きものであつた。即ち千葉県に於ける騒擾は主として東京府に近接した下総地方に蜂の巣を突くが如く続発し、同県下に於ける内鮮人殺傷事犯は殆んど之等の渦中に於て行はれ、其の被害者は鮮人死亡六十七名、負傷十七名合計八十四名及び内地人死亡二十一名、負傷四名合計二十五名に達し、以上を合算すれば総計百九名に及ぶ状況であった。斯く鮮人の被害者が多数に上ったのは、当時北総鉄道敷設工事が起工中であり、下に従事して居た鮮人土工数十名が附近住民の爲め、東京地方に於ける不逞鮮人と気脈を通じて暴動を起す危険ありと見做された結果、所在の自警団群衆に依つて逮捕護送されるに至ったが、其の途次恐怖と反応に駆られた之等群衆に依り殺害されたに因るものであった。震災直後同県下の民心が如何に不逞鮮人襲来に恐慌したか、之が一例として法典村に於ける騒擾被告事件の証人なる船橋海軍無線電信所長海軍大尉某に對する予審問調書の一部を左に掲示する。

予審證人訊問調書抜粋

問 震災当時朝鮮人が襲来するといふ話を聞いたか、そしてどんな処置を採ったか。

答 二日避難者の話に依れば、朝鮮人が爆弾を投げ、警視庁、三越等を焼き、宮城も犯されたと云ふ話であつたので、同日午後七時に全国へ送信して知らせ、一日に東京へ出した使ひ三人が前後して帰り、海軍、陸軍、内務、大蔵各省の救助報、外務省より各国に居る大使にする電報、外国人の電報等多くを頼まれて来た中には、警保局長から山口、福岡の両県知事に宛て朝鮮人が東京で暴動を起して居るから当分朝鮮から日本に来る者をば差止めと云ふらしい意味のものもあったので、之等緊急信を送信し、三日の午前三時頃付近の村で警鐘を乱打しますので、守衛を自転車で情報探りに出し、警察へ電話で問合せました。船橋送信所と東京との間を砲兵がしきりに往復連絡を採ったが、一砲兵上等兵の話に、只今朝鮮の暴徒が襲来し、市川の橋を破壊しようとして格闘の末殺されたと云ふ話があり、船橋送信所へでも襲来されてはならぬと思ひ、所員一同に武装させてさせた。

当日、日本の通信機関としては、船橋送信所は最も大切であるから、襲来されては大変と思った。それから東京の放火は鮮人学生が爆弾を投げ、六、七人の労働者が麦酒瓶に石油を入れて投げ歩いて居るのを取押へることが出来ないと云ふことを聞き、此方へ来ると云ふのが確実の様に思はれ、兵力で警備せねばならぬので市川旅団司令部へ口頭で申込み、大久保衛戍司令官三好少將の所へ添書を寄せて二十名の騎兵を寄越して貰った。送信所の近くには北総鉄道工事に従事して居る朝鮮人が数百名居ると云ひ、又東京の暴徒と北総鉄道に居る之等鮮人とは連絡があると云ふことを聞き、又通信もへたので私は独立指揮官として警備に当り、警察に之等鮮人の検束をして貰はねばならぬと考へました。

問 朝鮮人の襲来に対する警戒は如何。 

答 私は事態急と存じたから、海軍省に無電と文書とで出兵を再三乞ふたのですが、何等返信がなく、習志野騎兵旅団司令部に使を出して三日二十名出兵するとの通知を受けたが、兵力不足で不可能となり、塚田村長に交渉し、青年団、在郷軍人団の応援を得て警戒した。

三日午後五六時頃集つた村民に対し、(一)朝鮮人暴動に対する一般状況並に送信所の任務の重要なると、(二)同夜送信所襲撃の目的を以て来る朝鮮人は殺しても差なく、自分が責任を負ふこと(三)味方識別暗号として船橋を定め、又白木綿を以てを掛けさせ、(四)味方の配備、(五)敵襲に対する訓示をしました。(大正十二年十一月二十日法律新聞参照)
 
 又埼玉県に於ける騒擾の裏面には、次の如き事情が伏在して居た。即ち同県下に於ては、既述の如く九月二日以降鉄道又は徒歩に依り東京方面から避難民が流入した結果、彼等避難民の口を介して不逞鮮人暴動襲来の流言が沿道一帯に喧伝され、住民をして極度の不安動揺に陥らしめ、忽ち自警団の出現を見るに至つたが、更に同県当局に於ては事が唐突であり、右流言の真偽を確知する遞がなかった爲め、万一を慮り、内務部長の命を以て同日県下の各郡役所を通して各管内の町村役場に対し、「予め鄉軍人分会、消防手、青年団員等首脳部と謀り、警察官と協力の上、不逞の徒の来襲に備へるところありき」趣旨の通牒をして、当局自から県民の自警行動を勧奨した事実があった。斯くて県下一円には更に自警団の続出を見たのみならず、殊に中仙道一帯には随所に之等自警団の警戒網が張られ、鮮人一般に対する県民の恐怖と反感は愈々激化される状況となった。然るに同県警察部に於ては、右の如き県民一般の鮮人に対する気合に漸次不穏の徴候があるのを察知した爲め、県下各地に散在して居た鮮人土工等を収容して、之を伝遞の方法に依り群馬県に護送するの方策を採り、同月三日以来貨物自動車数台に夫れ夫れ十数名の鮮人を乗せ、若干の警察官が之に付添ひ、「埼玉県警察部」なる旗を掲げて中仙道を進発せしめた。之が爲め之等の護送隊は忽ち沿道を警戒中であつた自警団群衆に依って、不鮮人の襲来と誤断され、に不祥事態を惹起せしめたのである。同県下の自警団騒擾が群馬県に近接する地方に勃発し、鮮人の被害者が死亡百名の多数に上った理由は、右の如き事情に基くものであつた。
 次に群馬県に於ける騒擾は、孰れも埼玉県との隣接地域に発生したものであり、其の原因の一班は同県下に於ける前各騒擾の影響に基くものであった。然かも当時群馬県下の情勢が如何に険悪なものであったか、大正十二年九月六日附前橋地方裁判所検事正の報告は次の如く述べて居る。即ち「目下管下各警察署に検束せる鮮人は百名内外にして、利根郡水力電気工事場に二百余の鮮人工夫あり、会社は全部之を解放せんとするもの如く、其の爲め同地方人心々たる有様なれば、何時如何なる事を惹起するやも計り難く、高崎警察署には現在四十名余の鮮人を検束し居るも、是藤岡警察署に於けると同様の不祥事を見る所あり、警察当局に於ても百万民心の鎮撫に努め、之が防止に腐心し居る不逞鮮人に対する宣伝は極めて猛烈なる爲め、到底其の目的を達する能はず、殊に本県警察官は約二百余名上京し居るを以て、現在の警察力を以てしては、之を如何ともするに由なく、又犯人の検準も殆んど不可能の状態に有之候」と。
 以上各県に於ける自警団騒擾発生地の分布状態を表示すれば、次の如くである。(七六頁参照)


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